手打ち蕎麦をする私の徒然日記

2003年1月に手打ち蕎麦に初挑戦。手打ち蕎麦の事ばかりでなく、日常インパクトのあった事柄を思ったまま綴ったブログです。

生まれて初めて119番に電話、弟に付き添い救急車に乗る

2007-06-07 12:44:05 | Weblog
3日前のことだ。去る6月4日、その日は午前中の比較的早い時間に、久しぶりに3番目の弟から長兄の私に電話がかかってきて、2番目の弟を含めた3人で久しぶりに昼食をすることになった。そんなわけで私は急いで支度して、JRの電車で大宮に向かった。正午頃、大宮に着いて弟の会社に向かう道すがら、偶然にも3番目の弟のところで働いている私の家内とバッタリ遭遇、「2番目の弟が急病になった」旨の知らせを聞いた。そこで、すぐ西川口に1人で住んでいる2番目の弟に電話したら、"目が回って立てない状況"だ、という。彼は一昨年は脳梗塞を患い、昨年は大腸がんを患っている前歴があるのだが、家族と離れて一人住まいしているため、心配になり私と家内が急遽、西川口の彼の自宅に行った。ベッドで仰向けに横たわる彼は、青白い顔をしていて上半身を起こすこともできない状態だった。血圧を計ったら170くらいあった。私は弟を説得し、救急車を呼んで、一昨年に彼が脳梗塞を患ったとき診てもらった病院へ行くことになった。で、私は生まれて初めて119番に電話し、家内とともに、弟に付き添い救急車に乗って病院に行った。救急車内で青白い顔をして横たわる弟を見ながら、私はなんか息が詰まりそうな感覚に見舞われた。救急隊員が車内で彼に装着した血圧計を見ると、177の数値が表示されていた。「ピーポー、ピーポー」というサイレンを鳴らしながら走る救急車は赤信号をも優先して、どの交差点でもノンストップで走りぬけているわけで、この時ほど、救急車に道を譲ってくれている一般車両のドライバーに心からの感謝の念を抱いたことはない。やがて、病院に到着。すぐ救急処置室に通され、弟は頭部のCTスキャン検査などを受けた。一通りの検査が終わるまでの間、私と家内そして救急隊員の方が廊下の待合用ベンチで過ごしたが、その間、手持ち無沙汰の私は、ときどき救急隊員の方に質問し、苦労話などを伺った。やがて、1時間以上かかった頃、待っていた私たちが、医師に呼ばれ、CTスキャン検査のフィルムを見せられながら診断結果を伺った。それによると、弟の病状は、脳梗塞のものではなくだ単なる一時的な過労によるもの、ということだった。私も家内も弟の入院を覚悟していたので、その必要もない、と言うことを聞いて安堵した。この頃は、弟の顔色も生気を帯び、立ち上がって歩けるようになっていた。その後、私たちは、薬をもらい、弟と共に、タクシーで西川口の彼の家に戻った。彼の元気回復を見届けてから、私と家内とは夕方6時近くに、彼の家を出て帰途についたのだが、途中、この日の非常に遅い昼食をとった。この日は、家に帰って疲れがどっと出た一日だった。
ところで、実は私も救急車で病院に担ぎ込まれたことがあるのだ。私が初めて救急車のお世話になったのは、まだ会社勤めをしていたころで、当時、埼玉県に住んでいた時分で、朝方、救急車で病院に運ばれたことがある。思い起こせば、もう数十年も前のことになるが、ある日の朝方、6時ごろだったが、起床してトイレに立ったら、目が回り、立っていられない状況だった。その後、フトンにもぐってもますます眩暈がして気分がおかしくなり、顔面蒼白で、足も冷たくなっていて、額には冷たい脂汗が浮かんでいたように思う。そんな中、かつて看護婦をされていたことがあるという近所の奥さんが、急遽、我が家に来てくれて、私の様態を気遣ってもらったことを今でもハッキリ覚えている。彼女は近くのマンションに住んでいて、現在では岩手県にお住まいの重○さんの奥様だ。当時の私の病気も、今回の弟の場合と同様に、たしか過労による身体の平衡感覚に異常をきたした一過性の病気だったようだ。
コメント
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