今日の土曜教室では、各教室で生徒たちに、クイズ形式で、"これ、なんだか知ってる?"って具合に、「ピサの斜塔」の写真を見せてみた。これは、あらかじめインターネットからダウンロードした写真をインクジェットプリンターで印刷したものだ。4年から6年までの生徒の中では、"どこかで聞いたことがある"、っていう程度の生徒が2~3人ぐらいだった。1600年頃(なんと、日本では関が原の戦いが行われていた当時!!)、ガリレオが、重い物と軽い物とを、この高さ55メートルの斜塔のてっぺんから同時に落下させて、どちらが早く地面に落下するかを実験した、という言い伝えがあることを、話すと、生徒の多くは目を輝かせていた。
土曜教室の学校から帰宅して、そそくさと昼食としてのパンなどを食べてから、PM0時半くらいの電車に飛び乗った。杉並公会堂で行われる孫娘のピアノ発表会を見るためだ。途中、大宮で乗り合わせた家内と一緒になり、JR新宿駅で乗り換え、発表会が行われる東京の荻窪に向かった。
新宿から乗り換えた中央線では、車窓には「日本電子学校」が見え、また、中野駅も経由したのだが、これらにまつわる思い出が脳裏をよぎる。「日本電子学校」といえば、かつて技術士仲間の近○さんが一時勤務されていた学校だ。当時は、まだインターネットが出現する前で、BASICプログラムを組んで、2地点間を結ぶパソコン通信の実験をするのがやっとの時代だった。その近○さんは三菱電機在職時代もそうだったようだが、日本技術士会の中でもいろいろ積極的に活動されていて、常に私たちをリードしてくれていた。ところが、10年くらい前にゴルフ場で心臓病で倒れてからは、自宅療養されていて、毎年のように"今年こそはお会いましょう"、との年賀状をいただいていたのだが、その後、亡くなった、との悲しい知らせが奥様から届いた。
JR中野駅と言えば、私の叔父さん(私の父の弟)が、駅近くで「あんみつ会館」という名のお店を経営していたことがあり、私はそこにお邪魔して、ご馳走してもらったことを覚えている。叔父さんは誰に対しても、すごく賑やかで口達者な人で、周囲にはいつもいつも笑いが絶えなかった。その後、その叔父さんは店をたたみ、87歳という現在は、自宅にこもっていて、不自由になった身体をいたわる生活、と聞いている。ほんとに寂しい限りだ。
やがて、JR荻窪駅に到着。ここは、かつて日産自動車荻窪工場に通っていた時の下車駅だ。当時、私は駅前からバスに乗り、青梅街道を下って、月に一度の割合で同工場に足を運んでいたことがあるのだ。かつて、技術士仲間からの紹介を通じて、同工場のエンジニアから「宇宙通信」に関する講義をしてほしい、と頼まれて、私は10人ぐらいの社員に対して定期的に講義をしていた。
さて、私と家内とは、荻窪駅前の青梅街道に沿って歩いて下る。歩道は広い方なのだが、休日のせいか人通りが激しく、それに歩道上を自転車も往き来していて歩くのに結構気を遣う。駅からゆっくり歩いて10分もしないうちに杉並公会堂に到着。新装なって、ちょうど1周年を迎えた同公会堂に入ると、そこは天井もすごく高く、広々としたゆったり空間でリラックスした気分になる。正面玄関を入ってすぐに、鬼ゴッコをしている愛しの2人の孫娘が目に飛び込んできた。彼女たちもすぐに私たちに気づいて、3歳の孫娘が早速「オジイチャン、オジイチャン」て言いながら、笑顔で駆け寄ってくる。私はおどけて柱の影に身を隠すがすぐ見つかってしまう。
-----ピアノ発表会は地下2階のホールで定刻のPM2時半ピッタリにスタート。私と孫娘のパパは、いつもの通り、例によってビデオの撮影を担当。娘によると、今日は朝からの自宅での特訓のおかげで、6歳の孫娘が弾いたピアノ演奏はマアマアの出来だったようだ。
土曜教室の学校から帰宅して、そそくさと昼食としてのパンなどを食べてから、PM0時半くらいの電車に飛び乗った。杉並公会堂で行われる孫娘のピアノ発表会を見るためだ。途中、大宮で乗り合わせた家内と一緒になり、JR新宿駅で乗り換え、発表会が行われる東京の荻窪に向かった。
新宿から乗り換えた中央線では、車窓には「日本電子学校」が見え、また、中野駅も経由したのだが、これらにまつわる思い出が脳裏をよぎる。「日本電子学校」といえば、かつて技術士仲間の近○さんが一時勤務されていた学校だ。当時は、まだインターネットが出現する前で、BASICプログラムを組んで、2地点間を結ぶパソコン通信の実験をするのがやっとの時代だった。その近○さんは三菱電機在職時代もそうだったようだが、日本技術士会の中でもいろいろ積極的に活動されていて、常に私たちをリードしてくれていた。ところが、10年くらい前にゴルフ場で心臓病で倒れてからは、自宅療養されていて、毎年のように"今年こそはお会いましょう"、との年賀状をいただいていたのだが、その後、亡くなった、との悲しい知らせが奥様から届いた。
JR中野駅と言えば、私の叔父さん(私の父の弟)が、駅近くで「あんみつ会館」という名のお店を経営していたことがあり、私はそこにお邪魔して、ご馳走してもらったことを覚えている。叔父さんは誰に対しても、すごく賑やかで口達者な人で、周囲にはいつもいつも笑いが絶えなかった。その後、その叔父さんは店をたたみ、87歳という現在は、自宅にこもっていて、不自由になった身体をいたわる生活、と聞いている。ほんとに寂しい限りだ。
やがて、JR荻窪駅に到着。ここは、かつて日産自動車荻窪工場に通っていた時の下車駅だ。当時、私は駅前からバスに乗り、青梅街道を下って、月に一度の割合で同工場に足を運んでいたことがあるのだ。かつて、技術士仲間からの紹介を通じて、同工場のエンジニアから「宇宙通信」に関する講義をしてほしい、と頼まれて、私は10人ぐらいの社員に対して定期的に講義をしていた。
さて、私と家内とは、荻窪駅前の青梅街道に沿って歩いて下る。歩道は広い方なのだが、休日のせいか人通りが激しく、それに歩道上を自転車も往き来していて歩くのに結構気を遣う。駅からゆっくり歩いて10分もしないうちに杉並公会堂に到着。新装なって、ちょうど1周年を迎えた同公会堂に入ると、そこは天井もすごく高く、広々としたゆったり空間でリラックスした気分になる。正面玄関を入ってすぐに、鬼ゴッコをしている愛しの2人の孫娘が目に飛び込んできた。彼女たちもすぐに私たちに気づいて、3歳の孫娘が早速「オジイチャン、オジイチャン」て言いながら、笑顔で駆け寄ってくる。私はおどけて柱の影に身を隠すがすぐ見つかってしまう。
-----ピアノ発表会は地下2階のホールで定刻のPM2時半ピッタリにスタート。私と孫娘のパパは、いつもの通り、例によってビデオの撮影を担当。娘によると、今日は朝からの自宅での特訓のおかげで、6歳の孫娘が弾いたピアノ演奏はマアマアの出来だったようだ。