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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

クートラス

2017-02-13 | 芸術、とか
小さいものが好きというのは、いつもうるさく言ってるので
周りじゅうに知られているわたしですが、
クートラスは、最初は少し距離を置いてたんです。
ポスターなどのその辺にある紙に下塗りして描かれた小さな絵、というのは
ものすごく心惹かれるけど、絵自体はなんだか暗く重いように思って。
でもここ数年、いやいや、やっぱり好きであるよと思うようになってたら、
展覧会が来た!
寒いけど素晴らしいお天気の日に、遠足気分で見てきました。

大阪から京都へ向かう途中にある大山崎山荘美術館。
この建物は大正から昭和初期に作られた英国風の山荘で、
ここ数年の間に見物しにいった幾つかの洋館、
たとえば御影の乾邸や宝塚の松本邸などとちょっと趣が違う気がするのは
山荘だからか、英国チューダーゴシック様式だからか、
建築に暗いので、わたしにはわからないんだけど、
冬のきれいな快晴の日に似合うとても素敵なところです。

テラスからの眺めと庭の彫刻うさぎさん


ここにきたのは初めてじゃないけど、
今、家のリフォーム計画中なので、何しろインテリアに目がいく。笑
このドア欲しい、この窓素敵、このシャンデリアは古いもの?と
ちょっとしたところで立ち止まってはほれぼれ。

さて、クートラスは初期の大きな作品も、有名な小さなカルトもあって
見応えはあるものの、こじんまりとした感じで疲れない展示でした。
自分の絵について、これからまた描くなら、といううことについて、
いろいろ考えながら見ましたよ。
クートラスは流行や権威に背を向けて、画壇から離れて、貧困の中で
一人マイペースで制作を続けた画家でポスターなどの紙の裏に
アクリルグァッシュで描かれた小さい絵たちが有名です。
最先端へ向けてもっと先へもっと高みへ、というのとは別の次元で、
誰の評価にも、どんな基準にも無関係に、
自分の描きたいものだけを描き続けるのは祈りのようなものだったのかな。
ナイーブ派や中世の宗教画の不器用で真面目なエッセンスと同時に
現代のイラスト的な軽妙さも感じられます。

美術館のサイトを見たときに、期間中にそこのカフェで
クートラスのカルト(小さい絵)を模したお菓子のセットがあるというので、
それも楽しみでした。お菓子は小さいわりに高い気もしたけど(笑)
おいしかったし、かわいいから許す。
2月なのに寒さの緩んでた日だったので、テラスでいただきました。

文学フリマと基一

2017-02-12 | 本とか
この前、初めて行ってみた文学フリマは、わたしが昔想像してた「コミケ」みたいな雰囲気だった。
若い人もたくさんいて、コスプレ的な着物着てる人とかも多かったし、
アニメ絵?の表紙の冊子もかなり多くて、
やっぱりわたしの世代の文学同人誌とはちょっと違うなぁと思った。
文学や同人誌というと昭和の古本屋さんの雰囲気を思い浮かべるわたしには
文学の今ってこういう感じなのかと思うと、すでに遠い気がしました。
これが文学フリマなら、コミケってどんなとこなんだろう、目が回って息が苦しくなりそうな気がする、
と思って、もうすっかり遅くて古いおばあさんになった気分…

でもこういう場に若い人が多いのはとてもいいことだと思います。
今の所、なにかの流行などに一色になる感じはなくて、
年配の人がひとりでなんの飾りも無く静かに売ってるブースもあり、
賑やかなコスプレ系もあり、というのは、いいと思います。まあまあ多様。

アニメ絵のついてない(笑)、純文学同人誌っぽいのをいくつか買いました。
あと、最後に見た漢詩の本、小さくてとても薄い本だけど
漢詩に興味を持ったことが一度もないのでかえって面白いかも、
これ読めばわかるようになる?などお店の人に聞きながら
値段を見ずに一冊くださいと買ったら1800円もして焦った!買ったけど。
でも、つまんなかったらどうしよう、と思うと怖くてまだ読めない。笑

時間があったらもっといろんな人とお話ししたかったんだけど、
あまりなかったので、とにかく全部回るだけでいっぱいいっぱいでした。
また行くかと聞かれたら、特に用がなければもう行かない気がするけど、
友達とやってるインスタグラム川柳の会で本を作ったら出すかも。学園祭のお祭り気分で。

この日は近くのお店で水餃子を食べてから、
そばの細見美術館で、鈴木基一展をやってたので、それも見ました。

Macで「すずききいつ」と打っても出てこないので前は一文字ずつ入力してたけど
「すずききいち」と打てば出ることに気づいた。
でも「きいつ」が正しいのよ、みなさん。笑
そしてこれはわたしの好きな、基一の絵の切手。

ミトン

2017-02-11 | 小さいもの
少し前から、レース編みのと、毛糸のモチーフのと2種類、
ブランケットかベッドカバー用に、ちまちまとモチーフを編みためてて、
特にレース編みは糸が細いので何日もかかってやっと1枚のスピードで
他のものを編んでなかったんだけど、ふと思い立って
ひと玉ずつ余ってた毛糸でアラン編み風のミトンを編みました。
レース編みをずっとしてて忍耐力がついたのか、
両手分、ほぼ同じものを2つ編むのも苦じゃなく楽しく編んだ。
カラフルじゃない単色のものだとアラン風模様が際立つので
そういうのも編みたくなって、息子にもう一つ地味な紺で編んでみました。

編みものは楽しいなぁ。
好きなものを自分で作れるって、楽しい。
ひとつ多めに自由を手に入れているようなものです。

映画:未来を花束にして

2017-02-10 | 映画


ひどい邦題ですが、映画を見ると確かに関連のあるシーンはあるのだけど、
でもあまりいい邦題ではないな。
映画の中身は確かに邦題のようにふわふわしてないしね。

ロンドンで参政権を求めた女性たちの100年前の活動が描かれています。
つくづく人間って野蛮で無知で馬鹿だったんだなぁと思う。
女性や多人種を劣ったものと考え、
それは違うと声を上げるものを平気で弾圧、搾取し続け苦しめてたのは、
ほんの数十年前。世界ってまだそんなレベルなのよね。

映画館でこれの前に流れたコマーシャルがPOLAのもので、
「この国は女性にとって発展途上国だ」とはじまる。
本当にそうだと思うし
この映画の前に流されるのが、とても合っていると思いました。


映画は、
不当に抑圧支配弾圧される女性というものを見るのが辛かったですね。
あと、カメラが手持ちでやたら揺れる画面が多いので、
それは臨場感などの効果としては良かったんだけど、ちょっと酔いました。

ヒロインは子供の頃から洗濯工場で働く女性労働者で一児の母。
やはり平凡でまあ優しい夫(ベン・ウィショー)も同じ工場で働いている。
貧しく過酷ながらも平凡な人生を送っていたヒロインが、
女性参政権を求める運動と出会い、だんだんと目覚め、
過激化する運動の中で家族を失ったり、仲間を失ったりしながら、
労働者を搾取する横暴な工場主や男社会の権威に立ち向かっていく話・・・
と書くと、なんか勇ましい話のように聞こえるんですが、
画面が、ずっと青みのあるグレイがかっていて、
ロンドンの地味で陰鬱な曇りの日がいつまでも続くような雰囲気です。
苦難の果てに栄光があるというタイプの映画ではなく
頑張っても簡単には報われない閉塞感や絶望の重苦しい予感も漂っています。
そして、活動が過激になっていく様子や、そこに巻き込まれていく様子、
子供と引き離されたり、命までかけてしまうようになるまでの流れ、など、
ごく普通の市民が活動家になっていく様子がとてもよくわかります。

女性の人権だけでなく、持てるものと持てないものとの格差の問題がひどく
労働者は一生搾取されるままで、それは男性も女性も同じで、
その親も子も同じように働きづめの人生を送るしかないという時代なので、
本当は男も女も労働者として団結して権利主張や要求をすればいいのにと思うけど
女性は同じ人間と思われてなかったし、団結するどころか
最下層の労働者の中でもさらに女性は搾取されてただろうから、本当に悲惨。
上のPOLAのCMにあるように、わたし自身女性であったことで
辛いことや悲しい思いをいやというほど味わってきたけど、
それでもこの20年くらいでも少しは良くなってきた部分もあるし
先人たちの努力を見て、もっと良くならなくちゃなぁと思います。

そういえば映画の中に嫌な男たちはいくらかは出てくるけど(特にエロ工場長!)
割と淡々と、男性憎悪をあまり呼び起こさないように配慮してある感じがしました。
憎しみで話を盛り上げないところに誠意がある映画だなと思う。
こういうお話って、ありえないほど卑劣な男にひどいことをさせて、
じっと耐えてきた虐げられし者たちの憎しみを爆発させることで
クライマックスを盛りあげるような演出が多いんだけど、
それは必要以上にはしてない感じなんですよ。
わからずやのような夫も、ヒロインを追う警察の人も、
そんなに単純ではなく、もう少し複雑な造形がされているのがいいです。
(とはいえ、あの工場長は、手なんかじゃなく
 あそこを焼いてやれば良かったのに!・・・見た人だけわかる呟き。笑)

ツイッターでの、この映画についての友達とのやりとり
>「ヘルプ〜心がつなぐストーリー」や「ミシシッピーバーニング」見たとき似たようなこと思った。ほんの数十年前まで人権ある「人間」は成人男性だけ、それも、その地域で勢力ある人種だけの。人権の範囲が広がったことで彼等は既得権を失い、グローバル化で搾取相手も失い、トランプ支持に至る…と。「人権」なんてもの発明されてまだ日が浅いファンタジー。お互い闘わずに済ませるための紳士協定に過ぎない。だから権力は暴力装置を絶対に手放さない。
うん、先進国と呼ばれている国だって、そういう点で考えるとどこもまだまだ発展途上国だなぁと思う。男女平等なんてほんの数十年の歴史しかない、というか、まだ全然達成できてないところが多すぎるよね。

結局女性参政権が実現するまでは何十年もかかりました。
国によっては3世代以上か・・・。
でもわたし思ったんだけど、3世代分以上の時間をかけるなら、
女たちがもう少し意識的に、息子たちに女性の人権を尊重することを教えて
育てるということをしていれば、それ、もう何十年か早まったんじゃないかな?
もっとも大部分の女性たちの意識も教育も、そのレベルに達してなかったから
無理だったんだろうけど。
でも教育って大事。
子供には、差別ではなく人権を、教えなくてはいけません。
当たり前のことなのに、今の時代も、まだ全然できてる気がしないね。

バッハの無伴奏全曲演奏会

2017-02-09 | 音楽
バッハの無伴奏ソナタ&パルティータはすごく好きで
わたしの無人島へ持っていく1枚を選ぶとしたらこれか、
やはりバッハの無伴奏チェロかどっちかと思うくらい好き。

バッハの無伴奏でわたしのiTunesに入っているのは
メニューイン、パールマン、ハイフェッツ、グリュミオー、ムローヴァ、
ベンジャミン・シュミット、レイチェル・ポッジャー、ヒラリー・ハーン。
チェロの無伴奏も8人くらい持ってる気がするけど、バイオリンも8人分。
この中で一番好きなのは、レイチェル・ポッジャーのもので、
結局は好みの問題ですが、優しく抑制も効いて控えめでありながら懐が深く、
ゆったり、たっぷりとしていながら繊細な演奏と思う。
音が一つ一つ全部みずみずしく生きている感じがする。
疲れている時に聴くと、気持ちがほぐれて涙が出る。

その大好きなバッハの無伴奏ですが、
ソナタなどのアンコールにシャコンヌを弾く奏者は多いけど、
中々全曲演奏を聴く機会はなくて、
一度も生での全曲演奏を聴いたことがなかったのですが、
今回、初めてチョン・キョンファの演奏で全曲聴くことができました。
大阪のシンフォニーホールです。

チョン・キョンファはシベリウスだったか、協奏曲のCDは1枚持ってる。
一番好き!な奏者だったことはないけど、やっぱり好きで時々聴いてました。
エモーショナルながら緊張感の高い張り詰めた演奏の人かなと思ってたので、
どんなバッハになるのかドキドキしながら聴いてきました。

最初に、大事な人が前日に亡くなった話をされ、その人に捧げると言われた。
2回の休憩を挟んでの全曲演奏は渾身の演奏だったと思います。
そりゃ後半疲れるよね、集中切れるよね、って場面も含めて堪能しました。
ダブルストップが苦手なのか、楽器の調子か、音程に関しては
微妙な箇所が多く、後半、途中でやめて弾き直す場面もあり。
でも無伴奏全曲演奏に必要な集中力を思うと、仕方ないよと応援したくなる。

演奏の印象は、わたしの知ってるバッハと全然違う!でした。
バッハなのに、ストイックで凛とした透明感のようなものはあまりなく、
なんだか演歌のようにドラマチックなバッハに驚いた。
でも音はとても美しく、
たとえば練達の書道家が、余裕綽々すぎてつい勢いで筆がすべったり、
力入りすぎて過剰になったり、小さいことを省略してしまったり、
ところどころ大げさに自分の解釈で書かれた華やかな書、のような演奏かな。
面白かったです。

それ以来、なんだかずっと頭の中を無伴奏の何かのメロディに占拠されてます。
また誰かの全曲演奏があったら聴きに行きたいなぁ。

月記:2017年1月

2017-02-08 | 月記
たくさん映画を見て、コンサートも行ったし、歌劇も見た。
美味しいものもいろいろ食べたので、糖質制限は続けてるんですけど
12月と1月は全然痩せませんでした。というか太った・・・。
2月からまた頑張ろう。

・六甲道のレストランで岩淵さんと狂言師の方のトーク
 上演されたばかりの狂言の映像見ながら。
・宝塚歌劇を宝塚歌劇場で見るのは初めて。
 「グランドホテル」とレビュー。きらきらで素敵。
・桂春蝶さんの新作「ニライカナイで会いましょう〜ひめゆり学徒隊秘抄録」
・文学フリマ見物。」@京都みやこめっせ
・鈴木基一展@細見美術館
・垂水で女子会。明石焼、スペインバル、御影に戻って立飲みとはしご。
・チョン・キョンファのバッハ無伴奏全曲演奏コンサート
・シネマ歌舞伎「阿古屋」
・友達の家の新年パーティ。カキフライを初めて美味しいと思った。
 たくさんいただく。
・小磯良平美術館
・すっごくおいしいオレンジピールのチョコがけをいただく。おいしい。

映画館で観た映画:「こころに剣士を」「ローグワン」「アイヒマンを追え」
「聖杯たちの騎士」「Party51」「ネオン・デーモン」「皆さま、ごきげんよう」
「沈黙」「エゴン・シーレ」

DVDなどで観た映画:「ビリギャル」「スノーピアサー」「深夜食堂」
「さざなみ」「レヴェナント」「帰ってきたヒトラー」「ルーム」
「エクスマキナ」「ナッツ」「あん」

12月のつぶやき:後半

2017-02-07 | つぶやき
紙の手帳派なのですが、ずっと月曜始まりを使ってたのに、
来年のやつが日曜始まりだったので、
1月の予定を間違えて全部1日ずらして書き込んでいたことに今気づく・・・
いやぁ、土日は週の最後に楽しく二日続いてないとあかんやん!と思うんだけど。


字がどんどん汚くなってるのは、老化による手先のコントロール不備だと思ってたけど、
最近気づいたのはむしろ視力低下の方が大きな原因なのではということ。
見えにくいのにうすいシャーペンで描いてるから汚くなる。
細いペンに替えたら、随分マシになった。ペンの字は見えやすい。

リフォーム予定のキッチンを安普請していい万年筆を買うという手もある・・・


スープや炊き込み御飯は具沢山が美味しいので、
いつも10種類もの野菜を刻んだりしてきたけど、
息子がいた頃ならともかく、ひとりだと持て余すし
めんどくさいし作らなくなっちゃう。
でも、考えを変えて、スープの野菜はふたつでいい、
炊き込み御飯の野菜は一つでいいと思うと楽で十分おいしい。

料理は何十年も毎日のようにしてきても、まだあれこれ目が覚めることがあって、
おもしろいな。


去年は人生で初めて年賀状をやめたんだった。
留学中も、海外在住中も、どんな時も出してたのに。
来た分にはお返事しましたよ。
今年も作らない。来た分には手書きでちまちまとお返事書きますけど。

年賀状、好きなんですけどね作るの。プリンタが古くて今のMacに対応できない。
今のMacで作って、古いMac経由でプリンタに繋ぐんだけど、
プリンタ自体もうご老体なのでちゃんとプリントできなくなってきてるし。
家のリフォームしたら新しいの買います。設置場所決めてから。


寿命があと半年と言われたら、ダイエットはやめて食べ続けるかもしれないけど
(半年では運命の恋に落ちても楽しむ暇もなかろうと。笑)、
あと3年だったらダイエットは続けるかもなぁ。
家のリフォームは寿命半年でもやります。息子に残るからね。


薄〜い、いいグラスで飲むいいお酒が恋しい。
(最近立ち飲みや高架下の居酒屋的なとこしか行ってない・・・)


【病み上がりデブ】風邪引きの一連の流れの中で、最後の、そして最大の罠。


優しいのはわかるけど、スマートじゃないなぁ。
スマートじゃない人を、そのスマートじゃなさを責めてはいけないとは思うし、
いろいろなことがスマートかどうかは、一番大事なことではないけど。
そもそも、いろいろなことがスマートな男の人自体、あんまりいないしな。


雨。ベランダのプランタの中のジュリアンだけは鮮やか。
何もかもくすむような日にも鮮やかで偉いな。


歯医者って、自分は口開けてるだけでなにするでもなく寝てるだけやのに、
なんでこんなにエネルギー消耗するんだろうなー


なんとなくいやだ。なんとなくもやもや。と思ってる時に、
ツイッタでぶつぶつ書いてたら、何がいやなのかよくわかったことがあって、
やっぱり頭の中だけでぼーっと考えててもあかんなぁと思った。
キーボードやスマホの画面でもなんでも、
どこかに文字にすると整理されてくるよねぇ。


ユキヤナギは春のお花もあんなにきれいなのに、
色の少ない冬にもこんなに鮮やかに紅葉して、ほんと、えらい。


おいしいものを作ることを考えるだけで、
ちょびっと元気が出るのは、まあまあ元気な時。
しんどいと、何か作るとか考えられない。


家のリフォームで、片付いてきれいで居心地のいい家を夢想してるけど、
一方では一応清潔でさえあればインテリアとかどうでもいい、という気分の時もある。


小学校の(多分1年生)給食を毎日フェイスブックに投稿されてるお友達がいて、
給食の内容や子供たちの様子がいつもちょっとかわいくて、
地味だけど好きな投稿。今年はもう終わり。来年もまた毎日見たい。
ほのぼの系の毒のない投稿でも、しみじみ好きなものは多い。


いいホテルの昼からあいてるいいバーに行くといつも、
こういう世界にずっといる人生もあったのだろうか?とちょっと思う。
いや、ないか。(笑)
まあでも、わたしは、たまにはいいバーで高いカクテルを飲むべき。
自分で払う人生だし、帰ったら庶民的な豚汁作るんだけど。(^_^;)


国立国際美術館の床が好きです。これってどうなってるんだろう。
うちの寝室にこの床欲しいけど、高いんだろうか?


昨日も普段飲まないちょっと高いシャンパン飲んだし、
今日も普段飲まないちょっと高いカクテル飲んだし、美術館も行ったし、
友達の展示も見たし、たくさん歩いたし、セーターも買ったし、
粕汁美味しくできたし、ああ、いいイヴだな〜。

冬の朝に一晩おいておいしくなっている粕汁と、美味しいコーヒーがあって、
どこも痛くなくて、天気までよかったら、ほぼ完璧に幸せなのに、
それに気づいてないだけのことってよくある。
暖かい寝床と、おいしいコーヒーと最後の一切れのシュトーレンと粕汁がある
クリスマスの朝、ありがたいことです。
そしてどこも痛くない。こんなクリスマスが続きますように。


電車の中でバッハの話をしてる人って、阪急電車でもあまり見ない。
たまに見るとこっそり聞く。


おっさんというのは、おっさんというだけで、
うっかり加害者になってしまいやすいもので、それは仕方ないことなんだけど、
そんな可能性に全く無自覚で自分のマイノリティ性だけを振りかざして
常に100%被害者のつもりでいるおっさんにムカムカしているなう。
おっさんでなくてもそうだ。
なんで加害者であるかもしれない自分の可能性について考えようともしないのか。
誰かの足を踏んづけているかもしれないと全く思わず、自分は違うと言い張れるのか。


私も若い頃は快楽はヤバくて逸脱が深いものほど上にあると思ってたけど、
実際はおそらくほとんどの社会では、そのような快楽は
他人の快楽である限りは憧れられ敬われもするのに、
目の前の人のものだと人々はひきまくり敬遠し排除したりする。ということが、
大人になってわかった。
多くの人にとってそのような快楽は他人事だから、良いだけなのである。


習っているダンス教室の年末のパーティ、
1回目のパーティはブルース、2回目はジルバ、今回は、ワルツとジルバと
タンゴとルンバを踊ったけど、ちょびっとでもまともだったのはルンバだけで、
あとは全敗。知ってるステップだけなのにできない・・・。
もう2年も習ってるのにねぇ。週一回50分だとこんなもんか。。。


きれいな野菜を見ると買わずにいられない習性のせいで、
熱があるのに今夜もあれこれ野菜の下処理しなあかん。
ゴボウは味噌を入れたポタージュに。ブロッコリは茹でてチーズとサラダに、
パプリカとセロリはピクルス液につけて、クスクスのタブレに、
カブは鮭と粕汁に。ズッキーニはミネストローネに。


間違っていることを間違っていると言うのは、
分断を招くとかどうとか言われる筋合いはないけど、
どんなに自分が正しくても相手の逃げ道を塞いで責め続けるのは
いい方法とは思わない。
相手の納得できる着地点をどこか探してあげるくらい親切になれればいいのに。


今日は久しぶりに、うさこさんのケージの方に、
ついうさこさんを探して目をやってしまった。
うさぎがいなくなってから、ただいま、って口に出して言うことが
ほとんどなくなったなぁと気が付いて、
今日は買い物から帰ってきたときに、ただいまって口に出して言ってみた。


近所のデパートの前で、若いお嬢さんとすれ違って、
マスクしてたので顔はあまり見えなかったけど
清潔感のあるかわいい感じだなと思ったら、姪っ子だった。


自分のかき揚げが好きなので、年越し蕎麦だけは作って食べます。
節分の恵方巻きも食べる。好きな食べ物は、文化のあるなしに関係なく、食べます。
クリスマス前にシュトーレンも食べるし。笑


若い頃はファッションは主張だったり武器だったり鎧だったりしたものだけど
今の自分にとって容姿で戦ったりしないので、
ファッションは気晴らしと心地よさのためのものだな。
でも主張のためのファッションも何かと戦うためのファッションも、
面白いものは嫌いじゃない。見るぶんにはね。


人の鈍感さに気づくことは多いつもりでいたけど、
自分の鈍感さにも時々気づいて、なんかけっこうびっくりする。
なんしか、もうちょっと謙虚になろう。
それなりに謙虚なつもりでいたけど、
多分謙虚になる場所がいろいろとアンバランスなんだと思う。


映画も本も、関係者が知り合いだったりすると、ダメな作品でも、
なにか言うときは奥歯に物が挟まったような言い方しかできない。
ダメ映画を思い切りこきおろすという楽しみをなくしたいくないので、
できるだけ映画関係者とは知り合いたくないなぁ。。。


人間て、いやわたしだけかもしれないけど、わがままなものだな。
「嫁」をしないでいい年末年始のしあわせのさなかなのに、
あれこれと、今ないもののことを思う。


いつも普通に幸せなので、どう幸せになりたいという欲がわきおこらない。
お金は欲しいし痩せたいですけど。


高級で豪華なケーキが買えなかったので、ホットケーキを焼いて食べましたけど、
美味しかったし、まあ十分。なんかそういう人生。


今年のがんばったこと
・酔っ払ったのが少ない・糖質制限で昨冬に太った5キロが戻った・ダンスのクラスを増やして真面目に通った・家のリフォームに手をつけた・冬でもちゃんとペディキュアしてる・毎晩ちゃんとボディクリーム塗ってる・こつこつ編んでる・うさぎがいなくても元気にしてる
ブログを多分360個くらい書いたのはがんばってない。なんとなく毎日書いちゃうだけ。

映画:エゴン・シーレ 死と乙女

2017-02-06 | 映画


これはエゴン・シーレの人物や人生を掘り下げる感じではなく
女性たちとの関わりを中心に話が進むタイプの映画ですね。
エゴン・シーレは1890生まれ、わずか28歳で早逝したウィーンあたりの画家。
「エロス」と「死(タナトス)」の画家と言われています。
クリムトと同じ頃に生き、クリムトには世話になったようで、
この時代の流行りっぽくクリムトの絵に似た感じの作品もありますが
エゴン・シーレの絵はどこか、センスのいい悪ガキが、
自分の上手さと才能を、どうだ、と言っているようなところがあるように思う。
女好きだったように言われるけど、自分が一番好きだったんじゃないかなぁ。

映画の中に出てくるエゴン・シーレをめぐる女性は、まず彼の妹。
なんだか幼い顔立ちで(16歳からの数年の役なので当然か)垢抜けないけど、
特別なつながりがあって愛し合っていたのでしょう。
それから酒場で出会った、褐色の肌を保つエキゾチックなヌードモデル、モア。
奔放で誇り高くかわいい子です。
それからクリムトのモデルだった赤毛のヴァリ。個性的な顔立ちですね。
最後に、アトリエの向かいに住む姉妹が出てきますが、
この姉妹は全く魅力のないつまらない女たち。
この魅力のなさが、すごくうまく演じられています。
女性たちはそれぞれうまく描き分けられててわかりやすい。

クリムトの「ベートーヴェン・フリーズ」という大作の飾られた
ウィーン分離派展(セセッション展)のシーンを見ると、
この時代のアートシーンの感じがよくわかります。
「ベートーヴェン・フリーズ」は、確か2003年に兵庫県立美術館の
クリムト展で素晴らしい複製が展示されていたのを見て、
当時クリムトはそんなに興味がなかったのに、すごく印象深かった作品です。
ベートーヴェンの第九交響曲を大きな壁の三面全長35mに描いた大作で、
実物大の精密な複製で、本物と変わらないレベルに再現されていました。
今はクリムトはかなり好きになりましたが、シーレは特にファンではないです、
暗く重いタナトス、みたいなのがあまり自分の好みじゃないからかなと思う。
でも、いろんな作品が映画の中で見られるのはいいですね、
うまいなぁ、もっと見たいなぁと思う。

彼は破滅型の天才という感じではなく、ただひたすら優しい甘ちゃんで勝手な男。
才能がなくてこういう人ってよくいるけど才能があったから名前が残ったし
映画にもなったわけですが、実物もこんなに男前だったのかな?
主役はしゅっとした、したたるような美青年で、大変わたし好みでした。
「モンパルナスの灯」の甘いマスクの美男俳優ジェラール・フィリップに
ちょっと似てるけどそれほどは甘くなく、少しスッキリさせた美青年が演じてるので
目に心地よい映画だった。
でも彼をめぐる女性たちは、不思議な魅力はあるけど、特にきれいな人がおらず、
エゴン・シーレ役の子の美しさが際立っていたなぁ。
女性の中で一番重要なのは、彼と理解しあって深く繋がってたヴァリで、
変わった顔だなぁと思ってたのに、だんだんいい女に見えてくる。
目元が、なんかディカプリオに似てるのよ。でも目の色がとてもきれいな濃い青。
「モンパルナスの灯」の、モディリアニの妻ジャンヌのように
画家に尽くすミューズ的な存在だけど、ジャンヌより強くて自由な女性です。
無理した強がりもあっただろうけど、それを貫く自立心を持っています。いい女。
そうして、ヴァリは報われなかったけど、エゴン・シーレとは深く愛し合ってて
お互いに理解し合う仲間であり兄妹であり親友でありという存在だったので、
女性として報われなくても、あれでよかったのかもなぁ。
むしろ最後に出てきた姉妹の方がかわいそうかも。
見下され利用され理解も求められなかったのは惨めでしょう。

あとこの時代の建物の雰囲気いいですね。
エゴンシーレのアトリエの窓の形!すっごく素敵ー!こんな窓ほしいいいー!

須賀敦子と「この世界の片隅に」

2017-02-05 | 本とか
今お風呂で読んでる須賀敦子さんの「塩一トンの読書」
(この頃お風呂でしか本読んでない・・・)の中に、
早坂暁「夏少女・きけ、わだつみのこえ」の書評があって、そこにこう書かれていた。
”侵略戦争の記憶を、淡淡しい悔恨や、やさしいだけの鎮魂歌におわらせてはならない。どうすればその先を開くことができるか。現在の私たちの周囲に、内面に、あのときとは異なったふうにであっても、なお生きつづける全体主義や排他主義と、私たちは日々闘っているだろうか。そういった根本的な問いかけを、これらの脚本は思い出させてくれる。”

「塩一トンの読書」は2003年に出た本で、
その中のこの部分はごくありきたりな言葉に見えて読み飛ばしそうだったんだけど
ふと今上映してる映画「この世界の片隅に」のことを思い出したのよね。
この映画に苦言を呈さずにいられなかった人は、
映画から読み取れる戦争への悔恨や鎮魂歌的なものは認めながらも、
それがあまりにあわあわとやさしく、
根本的な問いかけに欠けていることに警笛を鳴らしていたのだろうなぁ。
加害責任の問題とかね、厳しいことや難しいことはそっと忘れたふりをして。
とてもやさしい、いい映画でしたけどね。

12月のつぶやき:前半

2017-02-04 | つぶやき
スープを作っておくのは、家に美味しいスープがあると思うと
寄り道せずに帰れる確率が上がるからです。
家に何もないとどこかの立ち飲みやバーにふらふら〜っと・・・

あと、朝お布団の中で、起きたら美味しいスープがある、と思うと起きられる。


同胞という言葉だけで、多数派の人たちに肩を組まれて
同じ方向を向かされるような不快感が、わたしにはある。
在日の社会にいると、やたら同胞同胞という言葉を聞かされるんだよな。


昨日は、ボジョレじゃないガメイを飲んで、若いガメイの味しか知らんかったけど、
ガメイも美味しいやんと思った。安いワインだったけど。


自分の香水の匂い、しゅってした時の爽やかな匂いも好きだけど、
1日の終わりに、お風呂に入った時に手首からふわっと最後にもう一度香る、
甘めのラストノートの匂いも好き。手首クンクンする。
好きな香りでも酔いやすいので耳たぶとか顔の近くにはつけられません。
手首とコートの内側にしゅってするだけ。
香水は玄関に置いてあって、出かける直前に、しゅっとします。


3杯くらい飲むと、長い階段もかけ上れるな。
10杯飲むと、多分途中でこけるけど。笑


なんか変わった店で飲んだ後の電車。
左向かいには求人誌に真剣な顔でマーカーで丸をつけてる女子、
右向かいには、それセックスと同じっすね、と話してる男子たち。
いったい何が、セックスと同じっすねなのか、ちょっと気になるけど、
着いたので降りる。電車って面白い。


社会的に全く必要とされてなくて、ほとんどすべての経済活動に関与してなくて。
どの世界とも接点がほとんど無い毎日なのに、
なんとか楽しく過ごしてる自分えらいすごい。


ネトウヨはキモい存在だけど、そんな相手でも、
容姿のことで気持ち悪がったり貶めたりバカにするのはやっぱりいやだな。


ディジー・ガレスピーのベレー帽とメガネの雰囲気は、
女子にはなかなか出せないなぁと思いながらジャズの映画を見てた。
黒ベレー帽もいいなー。自分で編んだニットのベレー帽はいくつもあるけど、
普通のフェルト系のベレー帽って持ってないんだよな。
少しベレーが似合うようになってきたと思うのよねわたしも。


おっさんの晩酌のような風邪ひき夕ご飯。
缶の焼き鳥柚子胡椒味、ピリ辛きゅうり、茗荷の甘酢漬けと、
昨日の大根とキャベツスープに小松菜足しておうどん卵入り。それと赤ワインだ。


ペット屋さんの生体販売には反対なんだけど、ペット屋さんはよく覗く。
小さい動物たちがかわいくて、ついゆっくり眺めてしまう。
ペットが疲れるのでガラスを叩いたりしないでくださいって張り紙がしてあるのに、
ガラス叩いて動物の注意を引こうとする人はいつもいて、見かけると注意する。
子供が多いね。
今日もいて、大きな男の人だったけど、どうも障害のある人のようで
声をあげて笑いながら、何度もとんとんガラスを叩いて動物の注意を引こうとしてた。
ガラスを叩くと動物がびっくりして疲れちゃうんですよ、と優しく声をかけたけど、
別のところへ行ってまたやる。こういう場合は、どう言えばいいのかなぁ。


街に出ると、女の人たちがみんなおしゃれでかわいいので、
なんだか気持ちが小さくなるなぁ。
こういときに、早くおばあさんになってしまいたくなる。
おばあさんは、あれからもこれからもどれからも、自由なはず、


来年の手帳が鮮やかな黄色、というか山吹色なので、
これに合う細字万年筆がほしいんだけど、深めの青とかかなぁ。

何かを選ぶときに、何色がいいですかと聞かれるのは本当に困る。
同じ青でも好きな青とダメな青があって、
どの色にも好きなその色と嫌なその色があるから、
どの色と一概に言えないことが多いよね。


ポケットの多い冬コートなので、手ぶらでござる。手ぶらで出歩くの大好き。


会うときに、小さいおみやげを時々くれる人がいて、そのセンスがなかなかいい。
評判のたまごサンドだったり、仕事であまったからという薄手のストールだったり、
新しく出て試したら美味しかったという缶詰だったり。
軽いおみやげで、気を遣わせないあんばいが上手い。


楽しかった。こてこての社会派?舞台を観たのも面白かったし、
久しぶりの人と飲んだのも楽しかった。
男の人と飲むとデートと言われるけど、普通に忘年会なんだけどな、自分の中では。
何もない相手とほどよくリラックスして飲むのも楽しいものです。
昔何かあった相手と懐かしく飲むのも楽しいけど。

ときどき誘ってくれるし好意を持たれているのもわかるけど、下心はなくて、
楽しく飲みながら少し一緒にいたいだけ、と思ってくれてる男友達はいい。


大勢でバカな話ばっかり笑いながら飲むのも楽しいけど、
ふたりだけで静かにたくさん話しながら飲むのも好き。


ややこしいおっさんたちをいつもややこしがっているけど、
自分も大概ややこしいことは知ってます。


一度会ったことのある、友達のわんこが死んだ。さびしいなぁ。
天真爛漫な感じの優しい茶色の大きめのわんこだった。
どしっとして、顔がいつも笑ってるみたいだった。


「野火」と「この世界の片隅に」のどちらかと言われたら「野火」を見て欲しいと言う。
でもそれは相手もよっても変わるかな。
「野火」をいきなり見せても拒否反応しかない人も多かろうし。


マクドナルドのナゲットの、期間限定ソースの、フルーツカレー味。
期待してなかったけど、甘いカレー味で、
カレーせんべいとかの駄菓子風味付けが、案外おいしい。
カレーライスを食べたい糖質制限時時には、これ食べるとましかな。


インストアミニミニライブで聴いた黒田卓也くんが、
知り合いのイケてる立ち飲み大将に似すぎてて、
多分キャラも少し似てると思う。


娘ほどの若い女性に恋をした既婚者の相談投稿への回答が厳しくて、
でもこの相談者は叱って欲しがってるのだからこれでいいという人がいてなるほど。
叱られたがるおっさんというのが一定数いるというのは、
知り合いが期間限定でやってた「叱られバー」が繁盛してたのでわかる。
ママさんたちにガンガン叱ってもらえるバー。
優しく叱られたがるのは甘えたいのと同じことだろうけど。
甘えたおっさんが多いということか。。。
いくつになっても恋心があるのは素敵なことだし楽しんだらいいのに、と思う私は
叱られバーのママにはなれませんね。
もちろん楽しむのは心の中だけにしとかないと、困ったことになると思うけど、
でも心の中でそっと、浮かれて甘くて切ない気持ちをあじわうのが、
みっともないとか思わない。


無償の愛映画御三家は「シャンドライの恋」「華麗なるギャツビー」
「コレラの時代の愛」だと思う。


愛国ネトウヨを喜ばせたくはないけど、
日本すごい日本サイコーと思うものがわたしにもあって、
それは編み物の編み図ですね。
日本だけなのかわかんないけど海外の本にはなさそうだし、
JIS規格だし、日本が誇っていいものでは。
ただし古き良き日本ではなく割と近代のものだし、
そもそも編み物が日本古来のものじゃないと思うけど。


自分はデブだけど顔は肉感的ではなく地味で古典的な顔立ちで、
大変おこがましいんだけど、
マティスやピカソの素描の女の顔に似てると思ってる。


春蝶さんが、戦争中に沖縄で、死んだ旧友の内臓をみんなで戻してあげた話を
笑いながらする生存者のおばあさんの話を聞いてて、
今もその子は夢に出てくるのよと言われたところで、
誰かにその記憶があるうちは戦争は終わってないんだ、
国の終戦で終わりじゃないんだと思った、というところを今聞いてる。

そのおばあさんが、友達の内臓が飛び出てね、おほほほほ、
みんなで戻したのよ、ほほほ、と笑いながら凄惨な話をするので、
なんで笑うんですか?と聞いたら、泣き疲れたの、とおっしゃったとか。



ダイエットの話しかしない女って、すごいバカっぽいけど、バカだし、いいや。
痩せたい。


>ウラジミールの裏地見るの


上着が欲しいな。真っ赤な軽くて暖かいウールのコートがいい。
でも気にいる赤ってなかなかない。

赤いコートを着て会いに行くという句を作りたいのだ。


早朝のオサレ大型書店が、思いの外気持ちいい場所だったので、
早朝に何かやって遊びたい。早起き苦手ですけど。


自分は友達の中だ誰と比べても驚くほど、ほぼ何者でもないので、
誘ってくれる人は何者でもないわたしを誘ってくれる人で、ありがたいことである。
そういう意味では、自分は相変わらずいつも裸だわ。

長い外国暮らしから帰ったばかりで、友達が全くいなくて、過去もないのと同然で、
呆然としてた頃よりは、ましか。


友達の言葉。どう考えたらいいか迷ってたことがすとんとわかった。
>ちなみに俺は「人の数だけ正しさがある」という言葉はナンセンスなので信じていない。 「正しさ」が存在し、その相対性を認めるという前提に立って考えることは認めた上でも、「人の数だけ存在することはあり得ない」と思っている。何故なら、正しさというからには一定の理が必要だから。
そもそも自分一人に閉じた「正しさ」なんていうのは「独善」というものでしかならない。どんなものでも当人にとっては何らかの必然性のある大事なものだということは認めるけど、それは「正しさ」ではない。
他人との間で何らかの「共有可能なルールを定める根拠」が「正しさ」である以上、「人の数だけ存在する」なんていうことは無い。他者と共有しようとすることを志向しないなら、「正しさ」として主張するのは筋違いだと思っている。 (自分自身にとって、自分の中の複数の自分にとっての正しさという限定条件があるならまあ良いけど)


映画「ビューティフルマインド」見てて、統合失調症のお薬を飲んでる主人公が、
ベッドの中で妻を拒むシーンがあるんだけど、くるっと後ろ向いて頑なに拒否して、
本人はもうデキないって悩むけど、あそこがたたないだけで、
それ以外は他のことはなんだってできるんだからすればいいのに。。。
あれってゼロか100かしかないと思ってるのか?そしてその100全部、
あそこ一つにかかってると思ってるのか?

お鍋

2017-02-03 | お弁当や食べ物
今一番よく使ってるのは
16センチのフィスラーの重たいステンレス鍋。
ご飯を炊く鍋だし、
冷たいスープはこれで作ることが多い。
ごく少量の水で野菜を蒸し煮するのに
厚みがあって、ピッタリふたがくっつき、
しっかり蒸せるこの鍋は重宝。

あと14センチのテフロン鍋。
一人分のうどんと
二人用のお味噌汁はこれ。

安物の20センチのステンレス鍋はおでんとかにも使うけど
22センチのフィスラーの方がおいしくできる。
でも重いのよねぇ、フィスラーは。
同じく寸胴鍋もあって、昔はこれでパスタとか茹でてたけど
重すぎて今は滅多に使ってないです。
おでんを大量に仕込むときくらい。

一人暮らしならお鍋も、もっと減らしていいかもしれない。

ところで、わたしには
お鍋に関して、よくわからないこだわりが一つある。
ホントによくわからなくて、申し訳ないくらいなんだけど
片手鍋の、持ち柄?が、好きじゃないのです。
・・・あれ、長いじゃないですか。
お鍋の、調和のとれた丸い形から
お鍋の径より長い柄が突き出ているのは
なんとなく、据わりが悪いと言うか落ち着かないのです。
お鍋自体はコンパクトでも、あの柄のせいで
無駄に広い場所を取るし、ひっかけたりしてひっくりかえしそうだし
どうしても余分なものに思えてしまう。
いや、柄がないと困るので、余分ではないんだけど
デザイン的に、なんか嫌なんでしょうねぇ。
こじんまりとまとまっているものが好きなのです。

ご飯炊いてる16センチのフィスラーの鍋は
小さい取っ手が両方についてる両手鍋で
この形は大好きです。
お鍋の部分に対して、バランスよくかわいく収まってると思う。
両手鍋だと、お鍋の中のモノを流す時などに
片手鍋よりずっと使いにくいことが多いけど
それでもこの形が好きなのです。

だからうちの鍋は基本的フライパン以外は全部
両手鍋か、柄を取り外せるようになってるものばかり。

こういうこだわりって、誰にでもあるとずっと思ってたけど
もしかしてわたしそういうの多いほうなのかも。

こんまる日々14:散らかりの根

2017-02-02 | Weblog
本棚の本は、種類分類で分けると、好きな本とそうでもない本が並ぶのが嫌だし、
好き嫌いで分けると分類がぐちゃぐちゃでわからなくなるし、
未読の本を手前に置いとくと未読の本で埋もれるし、
整理むずかしい。本増やさないように気をつけてるんだけど。

でも、本棚にまだ少し余裕があるので
(ダンボール10箱分くらいにに入ったままの本は別として・・・)
テーブルの上に積もっていた本は10分くらいで片付いた。

本棚に余裕がないと、場所を作るのにもう少しかかるんだけど
まだ埋まってない本棚があるとらくですね。

でもこのトップの写真、こういうのは、まだ散らかりの根が浅いとわたしは言います。
1、2種類のものが数山積もってるくらいだと、山が高くても割とすぐに片付きます。
でも何週間もほっとくと、もっと散らかりの根が深くなって、大変なことになる。
種類の違うものがごちゃごちゃに混じって、必要度、重要度、用途、など
全くバラバラなものが一緒くたに積み重なると、
それはもう、散らかりの根が深い状態で、片付けるのが大変になる。
本棚と台所と寝室を行ったり来たりして、しまうものをしまい、
整理するべき場所を整理し、スペースがなければ作り、とめんどくさい。
散らかりの根は浅いうちに片付けたほうがいいんですよねぇ。
わかってるけどなかなかできないけど。

ちなみに、本棚といえば今うちで生きてる本棚は5つ、
死んでる本棚一つ(本は一冊もなく物置き棚になってる)。
リフォーム後には、もう2つくらい増やして、ダンボールの中の本も
きちんと整理したいです。

「日本死ね」について

2017-02-01 | Weblog
去年の暮れにコトバ大賞か何かで話題になった言葉ですが、
必死な人の心の叫びを、言葉がよくないと切り捨てるのはどうだろう。
よくない言葉でしか表現できないものがあったのでしょうとわたしは思う。
個人的好き嫌いでいうと、過激な言葉や汚い言葉は嫌いなんですけどね。
きれいなものしか見たくないし、きれいな言葉しか聞きたくないと思ってるし。
でも、
映画でも小説でも見たくないものを見せられることはあって、
でもそこに必然があると、見たくないものの不快感さえ昇華されてしまうことがある。
そういうことかなと思うんです。

そもそもこの表現に怒っている人たちは、本当は別のことに怒ってるんじゃないかな?
わたしは「死ね」という言葉を安易に使うのは好きじゃないのですが、
「日本死ね」を非難してる人の多くは
「死ね」の目的語が「日本」であるところに反応してるんじゃないかなと。
国を愛する人にとって、愛するものを攻撃されるのが不快なのはわかるけど、
それ以上に、「日本」をなにか神聖で不可侵なものと考えたいのでしょうか。

そういえば、
死ねという言葉は重くて激しいので、わたしはあまり使いたくないけど
対象が死なないものなら、まあいいかと思うこともある。
割れないピスタチオの殻のばかー死んじゃえ!とか。
お布団から出たくない月曜の朝なんか死ね!とか。
途中で切れちゃって先っちょがどこかわからないサランラップ死んじゃえ!とか。
すみません些少なことばかりで。。。 笑
でも人生は日々の些少なことでできてるもんな。