sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

追悼文

2016-11-29 | Weblog
美しい追悼文は、どんなに切実であっても
その美しさに釈然としない気持ちになることがある。
それが決して人の死を消費しているのではなく
必死で消化しているだけだということもわかっていても・・・。
なんか切実なことや深刻な問題を消費することに、
自分はちょっと過敏で潔癖なのかもしれません。
ドキュメンタリーの悲しい写真が美しすぎると、もやもやするのと同じです。
本当に大事なことは、外へ向けた表現によってよく知らない人たちと共有したりせずに
そっと自分の中だけに、消化も消費もせずに置き場を作ってあげることが、
一番いいように思うのです。
表現するということは、人の死や思い出や関係を結局ネタにすることにもなるから。
ネタというとひどく下品に聞こえるけど、それが業というものでもあるし、
そこから途方もなく美しいものや良いものがうまれもするので
一概に非難することはできないとは、思っています。
美しいものや良いものは共有してもいいと思うし、間違ってるとは思わないけど
でもどこか釈然としない気持ちには、やっぱりなっちゃうのです。
だれも知られない場所に、そっと置いておいてあげてほしいような、
そういう慎ましやかさが、好きなんですね、
そういう自分は業にまみれて、全然慎ましやかでない人間だけど。

でも、自分自身の死は、残った誰かの人生のネタにされても栄養にされても
消費されても全然構わないと思ってるので、わたしは自分が死んだら
美しく胸に迫る追悼文を誰かが書いてくれたらいいな〜と、ちょっと思う。
親しかった人の書くお別れの文章って、とても心にしみるいいものがあるから、
まずは、文章の上手い友達とほどの良い、しみじみとした付き合いをし、いや、
そもそもその友達に愛されるような良い人間として生きて死なないといけないわけで、
案外ハードル高いかもしれない。
一応、ひとり、もう頼んだけど。長生きして、いいの書いてねって!笑

そういえば、自分のお葬式のことを考えるのが趣味という友達がいるけど
(きれいでかっこいいおねえさんです)、
華麗なお葬式のバリエーションをいくつも考えていて面白い。
わたしはお葬式はいらないから、
知らない人まで泣かせるような、しみじみしたお別れの文章を
誰かが書いてくれるのがいいな〜。
とても趣味の良い紙に趣味の良い印刷で、
わたしが生前お世話になった人たちに送りつけてもらっちゃおうかな。
でも死んじゃったら、自分の追悼文読めないのは残念だな。笑

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