散歩者goo 

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昨日記150219木(剪定 会計予算処理 掃除のアルバイトと震災の思い出)

2015年02月20日 12時47分10秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴・曇  最高/最低℃ =9.8  4.4
昨日は、ゴミ出しのついでに、玄関先の上をこんもりと覆っているジャスミンの選定をした。
ジャスミンを購入したときに、店の人が、ジャスミンは枯れていると思っても切らずにそのままにしておいてくださいと言った。
枯れているように見えてもそこから新芽が出ることが多いというのだ。
ジャスミンの蔓が伸びて、蔓と蔓が絡まり合いジャングル状態になる。
そうしたものを観察すると、確かに一見葉が落ちて茶色く変身した蔓から新芽が出ていることもある。
数年後、余りに茂ったので、少し刈り込んだ。
茶色くなって一見枯れている蔓も、生きている蔓と、完全に枯れている蔓と2種類あることが分かった。
完全に枯れている蔓は、折り曲げるとポキッと折れるが、生きている蔓は折れない。
昨日は玄関の上がひどく茂っているので刈り込んだが、蔓の状態を一本ずつ確かめてなんて出来る状態ではないほどこんもりと絡み合っていたので、適当に蔓の塊を引っ張り出して剪定した。
これでウットオシイ玄関口が少し明るくなった。
それでもまだ大量のジャスミンが玄関の上部を覆っている。
またいずれ、刈り込もうと思う。
それ以外に、四季咲きのバラも剪定してやった。
既に新芽が出始めていて、春になるといっせいに花をつけるのだろう。
冬の期間につぼみを付けていた数輪のつぼみの内、一輪だけクリーム色の上品な花を咲かせ始めた。

午後からはたまったレシートの会計処理をしようとして、予定日報表の予算表に不備があることに気付き修正した。
各月にまたがっていて、修正に多くの時間がかかった。
同時に現在の予算では、このままの状態では、1年後5万円以上の赤字になることが分かり、予算を修正した。
修正するといっても、経験的に、遠方(京都奈良神戸等)に出かける回数を減らしたり、出費の必要な展覧会や映画に行く回数を減らしたり、呑み会への参加を減らしたり、果物や値上がりした野菜を使わなくする程度で、5万円ぐらいなら節約可能である。
携帯電話は、全く使っていないので、やめると年2万円以上節約になるが、逆にスマホなら、有用と考えていて、かなり使う可能性があり、買い替えてもいいと思っている。
だが、基本料金が高いので今は買い替えできないが、最近各社が基本料金の安いのを宣伝しているので、調べてみたい。
スマホは、特に未知の場所に行く時とか、現在の催し物を外で検索するときには威力を発揮できるし、カメラ機能がもっと活用できる可能性があるのと、ワンセグも料金を気にせず見られるのがいい。

夕方から職安に行った。
やはり70歳以上の職場のほとんどは、6時頃からの早朝の数時間程度の掃除に限られていて、それすらも年齢制限がかかっていることが多い。
職安の結果は、予想通りであり、生活設計とすれば、今後アルバイトなしの年金生活だけの生活設計を立てる必要がありそうだ。(すでに現在はその方向で日常生活を送っていて、アルバイトが見つかればもうけものと考えている。)
人出不足といいながら、高齢者は個別の身体的精神的能力は考慮せず、65歳または70歳で切っているようだ。(経験的に40歳を過ぎると求人は急速に減少する。)
年齢不問とあっても、実際は若い人を優先して採用しているようだ。
職安を後にして、天満橋のファストフードで読書して帰った。


参考:掃除のアルバイトの思い出(掃除のアルバイトは、自己破産の前までは本当に金に困り、何度か掃除のアルバイトをしている。)
阪神大震災の時は、ギャラリーがまだ天王寺区にあった。
当時、ギャラリー経営がうまくいかず、食費にも事欠く状態であったので、ビル掃除のアルバイトを始めたところだった。
毎日、御堂筋のビルまで自転車で掃除に出かけ、6時10分前にはビルに入って3時間程掃除をし、その後、母の世話をしに病院に行き、昼はギャラリーをしていた時期が3-4か月あった。
掃除のアルバイトを始めて二日目に阪神大震災が起きた。
未だ暗いさなか遅刻しないよう大急ぎで自転車を走らせていて、御堂筋のビルに到着する直前に、ゴーという音と(後で地鳴りと気付く)電線が大きく揺れるのに気付いた。
自転車に乗っていると大地が揺れる感覚は全くなく、遠くに閃光が見えたので、積乱雲による大風が吹いていると思ったが、電柱も揺れていることに気付き自転車を止めた。
自転車を止めるとかなり激しく揺れていて、大地震だと分かった。
揺れが収まってから、数十メートル先のビルに入り、清掃を始めると、掃除中も地鳴りがして、大きなビルが何度も大きく揺れ、今までに経験したことのない事態に、命の危険につながる恐怖を感じた。
7時過ぎになって、僅かの社員が歩いて通勤してきたが、ビルに来る人はかなり少なかった。
掃除は早めに終わり、急いで母の待つ病院に駆け付けた。
途中かなりの被害が出ているかと予想したが、大阪の街は何事もなかったように平穏で、道沿いのビルや民家の被害も一部ショウウインドウが割れる程度で、被害はほとんどなかった。
病院に着いて、病院のロビーでTVを見るとニュースでは、震源地は中部・北陸方面といいながら、すぐに、上空からの高速が倒れている映像が飛び込んできた。
それを見て、とてつもないことが起きていることが分かった。
その当時初期段階では、死者は数十名という程度の報道だったが、高速道路崩壊や民家倒壊の映像を見て、かつてない大災害だろうと確信した。
その後帰宅して、ギャラリーに出かけるまで、TVにくぎ付けとなったが、TVでは次々と大震災の状況が報道されていた。
その年の夏に、ギャラリーを西天満に移した。
母は、その年の初秋に亡くなった、
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