老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
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佃煮のルーツは関西!!

2022年01月17日 19時45分23秒 | その他

 昨日、セルリーをチリメンジャコと一緒に佃煮風に炒めるという料理を紹介しながら、「佃煮」の発祥について気になったので調べてみました。

 佃煮は「魚介などを醤油、砂糖、さらには水飴などで調味煮熟(しゃじゅく)した保存性のある食品の総称」で、その名前の発祥地は東京都中央区佃で毎違いがないようですが、佃煮そのもののルーツはとなると諸説があるようです。

 その中で、一番有力な説は関西しかも大阪というのですが、この説に関してWIKIPEDIA と<ミツカン水の文化センター機関誌『水の文化』59号の『食の風土記』“漁民から全国へ広まった「佃煮」“>から引用させていただき説明します。

・1590年(天正18)、徳川家康の江戸入府にあたり、摂津国西成郡佃村(現在は大阪市西淀川区)より漁師33人を呼びよせ、隅田川河口・石川島南側の干潟を埋め立てて住まわせたのが佃島の始まりとされる。

 この家康と佃村漁師との関係は、家康が住吉神社(大阪市)に参拝する際、増水していた淀川水系の神崎川(当時は三国川)の渡船御用を勤めたことを機に生まれたようです。

・また、当時の関東の漁業技術は関西に比べ劣っており、一度の漁獲量が少なかったため、後に江戸城の御菜(みさい)魚上納を命じられるようになったようです。
 摂津国で漁業を行なっていた佃村漁民は、「春先、産卵のために川を遡上してくる半透明な近海魚の白魚(しらうお)の脳髄が徳川家の『三つ葉葵の紋』に似ていたことから縁起がよいとされ、家康が特に気に入り上納させたといわれています。

・関西漁民の移住には都市政策的な面もあったため、佃島漁民は江戸のどこでも漁業を行なってよいとされる「御免書(ごめんしょ)」を幕府からもらうなど、手厚い保護を受けるとともに、幕府から干潟を拝領した漁民たちは、島を築き佃島と名づけ、1646年(正保3)には故郷である摂津国の住吉神社の神霊を祀った。

・佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていた。
 雑魚がたくさん獲れると、佃煮を大量に作り多く売り出すようになったといわれ、保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及し、さらには参勤交代の武士が江戸の名物・土産物として各地に持ち帰ったため全国に広まったとされる
 また、住吉神社で祭祀があったときなどに、お神酒と一緒に佃煮のようなちょっとした食べものが振る舞われていた記録もありますが、航海安全や商売繁盛の守り神である住吉神社には、観光客はもちろん、舟運で江戸にやってきた漁師が安全祈願をするなど、当時からさまざまな人が訪れていたようです。



 このような経過を経て、大阪出身の漁師たちが定着した江戸の佃島で作った「佃煮」が江戸の名物として定着していったようです。(まさ)