大久保錦一さん編著の『潮来遊里史』には、天保11年(1840年)の潮来にあった遊女屋が、「河内屋」「蓬莱屋」「千歳屋」「松本屋」「二葉屋」「松葉屋」の6軒であり、それらの遊女屋の遊女の出身地とその人数、割合が記されています。それによると、下総90人(64.3%)、常陸28人、江戸6人、越後5人、奥州2人、駿府2人、上野(こうづけ)1名、武蔵1名となっており、下総・常陸出身者が90%近くを占めていたことがわかります。潮来近辺の地方出身者が圧倒的に多かったということになります。一方で「越後5人、奥州2人」というのも気になるところ。崋山がメモする文政8年(1825年)当時の遊女屋は、「松本屋」「大和屋」「蓬莱屋」「河内屋」「庫太屋」「四目屋」の6軒。そのうち「河内屋」「蓬莱屋」「松本屋」が、15年後の天保11年の時点でも残っていることになります。経営者が変わり、店の名前が変わったところもあるということでしょうか。「河内屋」は、享和元年(1801年)の記録にその名が見え、明治維新前後にもその名前が見えるから、江戸時代後半に、比較的長く続いた遊女屋であったようです。崋山が『四州真景図』「潮来花柳」で描く「大門」左手の、簾(すだれ)をまきあげ、障子を川風に開け放った2階建ての遊女屋は、さて、何という名前だったのだろう。また路上で挨拶を交わしている赤い着物に黒い帯の遊女たちや、禿(かむろ)と思われる女の子の出身地は、いったいどこであったのだろう。 . . . 本文を読む