鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.10月取材旅行「延方~息栖神社~利根川大橋」 その2

2011-10-19 06:23:48 | Weblog
『四州真景図』の第三巻の図三に香取神宮寺を描いた崋山は、図四で「鹿島」を描き、図五で「砂山」、図六で「砂山 砂吹上る図」を描いています。「鹿島」の絵は、船(さっぱ船)から遠望した鹿島神宮のある丘陵を描いたもの。丘陵手前に川があり、中程には中洲のようなものがあって、そして手前に崋山一行が乗る船が進む川がある。この川は現在の鰐川(わにかわ)を含むものですが、当時は干拓はそれほど進んでおらず、現在の鰐川よりもずっと幅広く、ほとんど「北浦」の延長ではなかったか。「前川」から北浦へと出た崋山の船は、鹿島神宮へ行くならば左へと曲がるべきものを、浪逆浦(なさかうら)から常陸利根川を経由して、銚子を目指して利根川本流へと出るべく、右へと進路を向けたのではないか、と私は思い始めています。その船からは左手遠方に「砂山」が見えてきて、それに興を覚えた崋山は絵筆を走らせたわけですが、その「砂山」とは、『渡辺崋山集』の解説によれば、「下総国香取郡石出村から見た対岸の太田新田か」とあり、この「石出」というのは現在のJR成田線の「下総橘駅」付近になる。ということは、常陸利根川から利根川本流に出てまもなく左手に見えてきた景色ということになるわけですが、崋山は、「鹿島」から利根川本流に出るまでの途中左岸にあった「東国三社」の一つである「息栖(いきす)神社」について、一言も触れず、またそれを描いてもいません。 . . . 本文を読む