鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.9月取材旅行「潮来~鹿島神宮」  その9

2011-10-06 05:30:00 | Weblog
銚子→利根川→関宿→江戸川→新川(船堀川)→中川→小名木川→江戸湊という、利根川・江戸川を利用した河川連絡航路が開け、深川番所が中川口へ移転して中川船番所が設置されたのが寛文元年(1661年)6月のことでした。中川船番所対岸から延びる新川(船堀川)は、江戸川・利根川水系とつながり、江戸~関東各地~信越・東北方面は、水運を中心に緊密な流通網で結ばれることになりました。江戸中期以降、「江戸地廻り経済圏」が進展していきますが、それはそのような水運を中心とする緊密な流通網の形成を背景としています。渡辺貢二さんの『高瀬船』によれば、銚子は承応3年(1654年)までは常陸川という細流の河口に過ぎず、河口である銚子に大型船の寄港は無理であったという。しかし元禄時代には拡幅工事が行われることによって千石船の銚子入港が可能となり、千石船が潮来まで川を遡(さかのぼ)ることができた、とのこと。河岸としての潮来の最盛期は元禄期ですが、それは千石船が接岸するようになったことと無関係ではないと思われます。千石船に積載された東北諸藩の年貢米は、潮来で川船に積み替えられて江戸へと運ばれていったに違いない。同じく渡辺貢二さんの『続高瀬船』によれば、「利根川高瀬船は他の高瀬船とは似ても似つかぬ巨船」であり、「北関東や奥州の米を江戸へ運ぶことを主目的に生まれ」たものでした。この「利根川高瀬船」が普及していくと、「利根の直船(じかぶね)」といって銚子から江戸までの直通便が増加し、今まで繁栄を誇ってきた潮来の地位は低下し、代わって利根川河口部の銚子の地位が上昇していったものと思われる。文化年間において、廻船問屋あるいは気仙問屋と称する問屋が、荒野村に3戸、新生村に1戸あって、諸藩廻米を除く奥羽地方の貨物の売り捌きを行っていたといい、また幕末の頃、銚子には仙台藩2棟・米沢藩1棟・磐城藩3棟・笠間藩1棟の穀倉があったという。利根川水系における河岸や河岸問屋・荷問屋の増加、利根川高瀬船の普及などが、かつての水運の要所としての潮来の地位(元禄期が最盛期)の低下をもたらした、とはいえないだろうか。 . . . 本文を読む