鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.西湖いやしの里根場~鍵掛峠~鬼ヶ岳 その6

2011-10-16 06:45:51 | Weblog
 「災害前の本沢川」というパネルによれば、根場地区を流れる本沢川は、川幅1.5mほどの小川でした。「ここで大きな災害が起きるとは、だれも想像していませんでした」とあり、かつての本沢川とその周辺の民家が写る写真が掲載されています。

 「生きた予報がほしかった もっと早く、正確に 『暴風雨圏』に重点置いて」と表題のある新聞記事には、先日の紀伊半島で生じた、台風の記録的豪雨による土石流被害を想起しました。

 昭和41年10月1日の『毎日新聞』の新聞記事パネルには、「遅かった!ダム建設 足和田 “人災”の色が濃い 西湖地区 三つのえん堤効果示す」とあり、砂防堰堤の建設が遅れたことが被害を大きくしたとしています。

 かつての根場地区のほぼ全景を写した貴重な写真もありました。それを見ると、集落は小さな扇状地の上からその中程までびっしりと茅葺き民家が集まっています。ほとんどが「甲造り」で、棟は「芝棟」であるように見える。

 たしかに現在の「いやしの里根場」よりも、ずっと密集しています。そして別のパネルによると、本沢川は現在のように「いやしの里根場」の中央を流れていたのではなく、かつての集落の東側の、山すそを流れていたようです。

 パネル類の記述を総合すると、根場集落を襲った土石流の直接的な原因は、昭和41年(1966年)9月25日の午前1時過ぎに山梨県西部に入った台風26号による集中豪雨にありました。

 台風進路の右側にあった足和田村は、台風に入り込む湿った空気をまともに受けることとなり、特に御坂山地の南側斜面は、非常に強い雨がたたきつけられる状態となりました。

 この雨がもたらした大量の流水の力で、川にたまっていた土砂が浸食され、土石流が発生することになったのです。

 なぜ本沢川などに大量の土砂がたまっていたかと言えば、その原因の一つは、水源部にある御坂山地の地質にあったという。御坂山地を形づくる「御坂層」とよばれる地層は、火山噴出物を多く含んでおり、やわらかくて崩れやすいうえに、断層の働きでひび割れもたくさん入っている地層であり、長い年月の間に何度も崩壊と堆積を繰り返し、その結果、大量の土砂が川の中に溜まっていたというのです。

 根場地区では、本沢川と、その支流である東入(ひがしいり)川と西入(にしいり)の3つの川で土石流が発生し、このうち本沢川の土石流が根場集落を直撃。土石流は1回だけでなく何度か起きたと考えられる、とのこと。

 本沢川は長さが2,5kmに満たない短い渓流(谷川)であったために、発生した土石流はあっと言う間に集落に達し、真夜中(深夜12時43分過ぎ)で眠りに就いていた人たちが多かったこともあって、死者・行方不明者が多数生じることになったのです。

 当時の根場集落の人口は235人。死者は50名で、行方不明者は13名。死者行方不明者の人口に占める率は26,8%。戸数41戸のうち、全壊家屋は32戸、半壊家屋は5戸、床上浸水が4戸におよび、全壊半壊の率は90,8%でした。

 土石流による被害は、根場集落だけでなく、三沢川の河口部である西湖地区でも発生しました。土石流は西湖の集落のほぼ真ん中を突き破って襲いかかりましたが、根場に比べると被災者や被災家屋の割合が少なかったのは、三沢川に建設されていた4基の治山堰堤が土石流の力を弱めたからだと考えられている、という。それでも31名の死者行方不明者を出しています。

 本沢川の上流が鍵掛峠付近、東入川の上流が鬼ヶ岳付近、そして三沢川の上流が毛無山付近であり、いずれも御坂山地を構成しています。

 私は、「いやしの里根場」の西側、薬明神社の鳥居前の昔ながらの道を上がって、鍵掛峠へと続く登山道を登り、鍵掛峠から右折して、アップダウンの続く尾根道を進んで、鬼ヶ岳へ至り、そこから雪頭ヶ岳のお花畑を経て、根場民宿村へと続く登山道を下山したわけですが、たしかに御坂山地は岩が露出しているところが多く、本沢川の上流や東入川の上流には巨大な岩が集積していました。これらは集中豪雨などで崩れた御坂山地の斜面の岩が沢に転がりこみ、豪雨で増水した川の流れの強さにより、転がり落ちて集積したものであると思われました。

 土石流は、「土砂」というものではなく、土砂を含んだ「巨石流」といったものではなかったか。

 巨岩を含む「土石流」が何度も襲ってきたら、その直撃を受けた茅葺きの木造民家はひとたまりもなかったに違いない。

 自然災害によって壊滅的打撃を受け、多数の死者行方不明者が出たということでは、先の東日本大震災や台風12号による被害と共通しており、パネル等を観覧する観光客の人たちからも、そのことに触れる会話があちこちで交わされていました。

 年輩の方で山梨県に住む人たちにとっては、この足和田村を襲った台風26号による土石流の被害は、今なお、生々しいものであるようでした。

 1階のパネルを見終わった後、2階へと上がる階段があったので、靴を脱いで上がってみると、そこには椅子が並べられており、正面に大型画面があって、『ある記憶』と題された、根場集落の被災前後の記録映画が上映されていました。


 続く(次回が最終回)


○参考文献
・『日本民家園収蔵品目録6 旧広瀬家住宅』(川崎市立日本民家園)
・『曲軒・山本周五郎の世界』(山梨県立文学館)


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