現在の霞ヶ浦、北浦、および利根川下流とその周辺湖沼からなる連続した内水面を、近世の地誌では、「香取流海」「香取海」「信太流海」「榎浦流海」「佐我流海」「印旛浦」「浪逆浦」などと記しているものの、いずれもこの水域を総称するものではないという。中世におけるこの水域の想像図を見てみると、神崎神社のある神崎津も、香取神宮に続く津宮(つのみや)も、鹿島神宮に続く大船津も、そして息栖神社のある息栖津も、一つの大きな広がりをもつ内水面に接しており、それぞれが船で容易に行き来できるようになっていたことがわかります。近世における想像図を見てみると、印旛沼から石出(現在、利根川大橋があるあたり)までが、流水による土砂の堆積等で水面が失われており、現在の利根川の流れが形成され、津宮(つのみや)と大船津、息栖津とは、形成された大きな中洲によって隔てられています。幕末の崋山一行は、津宮から潮来・鹿島地方へ行くのに、津宮→利根川→横利根川→常陸利根川→潮来→前川→浪逆浦→鹿島というルートをたどっていますが、これは大きな中洲が中世から近世までに形成されていたからです。流水の土砂の堆積による中洲の形成は、その後も引き続き行われていきますが、それを利用した大々的な干拓(新田開発)が戦後まで行われたところが、「浪逆浦(なさかうら)」と呼ばれる水域(潮来と延方を結ぶ線の南側で、現在の外浪逆浦の北側や西側)であったのです。 . . . 本文を読む