鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.10月取材旅行「延方~息栖神社~利根川大橋」 その7

2011-10-25 03:49:11 | Weblog
『茨城の史跡は語る』(茨城新聞社)に「柳川新田と掘り下げ田」という項がある。それによると波崎町域には、近世の砂丘新田開発として有名な三新田があり、それは太田新田・須田新田・柳川新田の三つでした。三新田の中で最も遅く開発されたのは柳川新田であり、それは天保15年(1844年)以降のことであったようだ。それ以前は、このあたりは「日川砂漠」と言われた広大な未開発地であり、その未開発地は、すでに開発されていた太田新田や須田新田に近接していました。三新田は、鹿島郡南部に広がっていた広大な砂丘地帯を開発して水田としたもので、周囲の松林は風砂の被害を防止するために植えられたものであり、以前は薪炭源も兼ねていたという。「掘り下げ田」というのは、地表から1mほど深く掘り下げられた水田のことであり、それは砂地のため用水の漏失を防ぐための工夫でした。この「掘り下げ田」が広がる柳川新田などの景観を大きく変えたのは、昭和30年代後半から始まった臨海工業地帯の造成。「掘り下げ田」や、その掘り下げた土砂によって造られた「盛り上げ畑」の多くは埋め立てられ、企業用地や道路網、住宅地などに変化したという。文政8年(1825年)の夏、常陸利根川と利根川とが合流するあたりに差し掛かった崋山は、左手に「砂山」が広がる光景を見、またその「砂山」が風のために砂をまきあげている光景を見て、それをスケッチしています。まだ新田が開発される前の光景で、風砂防止用の松林も広がっていない頃でした。彼が見た「砂山」は、「日川砂漠」と言われていた広大な未開発地であったと思われる。つまり広大な砂丘地帯であったわけで、彼はその砂丘の頂き付近が強風のために砂嵐のようになっている光景を、船上から手早くスケッチしたのです。この付近一帯にも、幕末から現代にかけての景観の大きな変貌があったことになります。 . . . 本文を読む