鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.西湖いやしの里根場~鍵掛峠~鬼ヶ岳 その5

2011-10-14 05:17:44 | Weblog
御坂峠を越えた甲州盆地側の民家の形式は、かつてどういうものだったのだろう。前に御坂峠を河口湖に向かって越えた時に通過した藤野木(とおのき)については、ここを明治15年(1882年)7月15日にヘンリー・ギルマール一行が通過した際、同行した日本人写真師臼井秀三郎が写した古写真があります。それを見ると、すべての民家は茅葺きで切り妻造り。妻の部分には換気・採光のための窓が設けられていて、おそらく屋根裏(小屋裏)では養蚕が行われていたと思われますが、根場で見られたような「かぶと造り」ではありません。棟の部分は「芝棟」となっています。このあたりの日川沿いの御坂道は、台風の豪雨による土石流などで、相当に道筋が変化していることについては実際にここを歩いて確認したところ。特に明治40年(1907年)8月下旬の台風の豪雨による被害は激しかったようで、土地の古老の話からも、その被害のことが伝承されていて、今でもその記憶が人々の心に刻まれていることを知りました。『山梨県の気象百年』には、それについて次のような記述がありました。「この大水害は50万県民挙げて死地に陥った大厄である。大小河川ことごとく氾濫し、山腹の崩壊おびただしく、田畑、人畜、家屋の被害著しく、まったく有史以来の大被害となった。このなか最も凄惨を極めたのは、日川、重川及び御手洗川流域であって、日川村、一宮村一帯は見渡す限り巨石累々たる河原と化したのである。」台風による数日にわたる集中豪雨によって、巨大な土石流があちこちに発生したのでしょう。その土石流とともに上流からおびだだしい数の「巨石」が転がってきたのです。 . . . 本文を読む