鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.10月取材旅行「延方~息栖神社~利根川大橋」 その8

2011-10-27 05:27:08 | Weblog
 次に現れた「舟溜」が「高浜舟溜」で、ここは比較的新しい漁船が10隻ほど碇泊しています。その向こうに松などの生垣で囲まれた集落が見えますが、あれが「高浜」集落であると思われます。

 それぞれの「舟溜」では、釣りをしている釣り客が見られましたが、ここにも釣り客の姿が見られました。

 次の「舟溜」は小ぶりなもので、「的石神舟溜」とありました。浮かんでいる漁船は5隻ほど。陸に上げられている船が2隻。その1隻には内側から草が生えていました。その周囲には田んぼが広がっており、風で傾いた収穫前の稲穂が見られたりするのですが、印象的だったのはその田んぼに白鷺(しらさぎ)がたたずんでいたこと。

 「芝崎舟溜」を過ぎ、「萩原船溜」に差し掛かったところ、その周辺の田んぼに多数の白鷺がたたずんだり歩き回ったりしていました。その数30~40羽はいるようです。近くではトラクターが稲の刈り取りをしているようであり、その際に土中から出てくるみみずなどを食べるために、このように集まっているのかも知れない。こんな多数の白鷺を見掛けたのは、利根川水系を今まで歩いてきて初めてのことでした。

 田んぼの向こうの集落は、今までと同じように生垣や樹木によって囲まれています。このような集落を「生垣集落」や「屋敷林集落」というようですが、これらの生垣や屋敷林は、崋山の描いた「砂山」や「砂山 砂吹上る図」から察すれば、周辺の砂丘から強風で飛んでくる砂を防ぐもの、つまり「防砂」のための設備であったものと思われます。

 水田が開かれる以前は、崋山が描いたような砂山が広がる広大な未開拓地であり、それは「日川砂漠」とも呼ばれていました。

 土壌は深い砂地であり、開発された新田は砂丘新田開発特有の「掘り下げ田」であって、それは砂地による用水の漏失を防ぐためのものでした。

 田んぼや畑の周辺には松の木が植えられましたが、それは風砂の被害を防止するためのもの。

 このあたりはかつて砂丘や砂地の未開拓地が広がり、強い風が吹けば砂が砂嵐のように飛んでいく地域であり、その開発(新田開発)は、砂や風砂との格闘の歴史であったことがわかります。

 「常陸川 左岸5km」の標識のところに出たのが14:49。

 しばらくして現れたのが「堤内舟溜」。ここは奥に長細い「舟溜」で、比較的新しい漁船などが多数停泊していました。その両側には舗装道路もあり、車が停まっており、人家も近接しています。

 次に現れた「舟溜」は、「堤内舟溜」とあって(日川浜町舟溜)と別書きされています。このあたりかが「日川」と呼ばれる地域であるようです。この「舟溜」はいたって小さく、漁船が5隻ほど停泊していましたが、長らく使われてはいないように見受けられました。

 その次に現れた「舟溜」は、今までの「舟溜」とは大きく趣きが異なり、漁船ばかりか大型のレジャーボートなども陸揚げされているような規模の大きい「舟溜」でした。立派な管理棟のようなものも建っています。貨物列車の車両を利用したような倉庫のようなものも。

 「舟溜」は、鰐川や常陸利根川、常陸川沿いに点々と存在していますが、それぞれ栄枯盛衰があって、その風情やまわりの景観が異なっています。

 このあたりから常陸川の行く手はるか前方に、川を左右に横切る水門が見えてきました。それが「常陸川水門」でした。

 「お知らせ」という大きな看板が立っており、それを見ると、水門より60m以内は「通航禁止水域」となっており、また、水門の上流側左手には「小閘門」と「大閘門」があって、それには「通航時間」が設定されています。それは「午前7時00分から午後5時00分まで」。

 また「日川第5樋門」から「日川排水樋管1号」までの間では、「周辺住民の方々から騒音による苦情がでてい」ることから、「水上バイク・水上スキーの使用禁止」水域となっていることを示す看板も立っていました。

 「舟溜」の一部は、レジャー用ボートや水上バイクなどの「舟溜」とも利用されていますが、それはこのような「騒音公害」も生み出しているようです。

 「横瀬舟溜」を左手に見て、「常陸川水門」に向かって、さらに歩いていきました。


 
 続く


○参考文献
・『定本 渡辺崋山 第Ⅱ巻 手控編』(郷土出版社)



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