鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.9月取材旅行「潮来~鹿島神宮」  その最終回

2011-10-07 06:01:39 | Weblog
改めて『定本渡辺崋山』の『四州真景図』の第三巻図三「無題」を見てみたい。これは図二「潮来泉やより望図」に続くもので、次には図四「鹿島」、その次に図五「砂山」が来る。この順番から言って、これは「鹿島神宮別当寺」の「大神宮寺」を描いたものという推測も成り立ちますが、当時の「鹿島神宮」に崋山の絵に描かれるような大きな三重塔を持つ「大神宮寺」があったというのは、どうも疑わしい。では芭蕉も立ち寄ったという根本寺かというと、鳥居があって三重塔があるという神仏混淆の様子からこれも成り立たない。もちろん潮来の長勝寺でもない。となると、これは香取神宮のどこかからの景観を描いたものをもとに、おそらく潮来の宿「泉や」の一室で描いた絵ということになりますが、現在の香取神宮にはこのような景観は存在しない。芳賀徹さんは、『渡辺崋山 優しい旅びと』で、久保木良氏の説をとって、「香取神宮境内から鳥居越しに香取神宮寺を望んだものと考えられる」としています。では、崋山が訪れた当時、「香取神宮寺」に三重塔はあったのかというと、『利根川文化研究11』の「─『利根川図志』の今昔─香取山神宮寺について」(神勉)によれば、神宮寺は香取神宮の別当寺で、神宮の境内にあり、本堂のほかに総高八丈七尺五寸(約27m)の三重塔や経堂、愛染堂などもあったといい、それらは明治初年の「関東一と言われるほど凄まじい廃仏毀釈運動」によって破壊されてしまったのだという。崋山が描いた神宮寺は、明治維新を迎えて、香取神宮境内から消えてしまったことになります。以上から、この絵は、「鹿島神宮別当寺」の「大神宮寺」を描いたものではないことは明らかです。 . . . 本文を読む