坂本高雄さんが山梨の民家について調査を始めたのは昭和30年(1955年)のこと。そして坂本さんがその研究の成果をまとめた『山梨の民家』を出版されたのが昭和50年(1975年)のことでした。坂本さんは、そのあとがきで、以下のように記されています。「わたくしが調査に手を染めたのは昭和30年でしたが、その頃からみてもこんなに急速なテンポで民家が消失してしまうことはまったく想像もつかなかったことです。勤務のない休日を利用して県下全域を廻っているうちに、二十年近くになってしまいました。」昭和30年代から20年間ほどのうちに、山梨県下においても伝統的形式の民家が驚くほどの勢いで姿を消していったことが、この坂本さんの感慨からも察することができます。そして同書には、「南都留郡足和田村根場」についても「甲(かぶと)造り」の茅葺き民家の集落として触れられており、しかし、昭和41年9月25日の台風26号の集中豪雨による土石流によって、「30余戸のうち4戸を残して瞬時に亡失」してしまったことが記されていました。 . . . 本文を読む
西湖に「いやしの里根場(ねんば)」というのがあるのを知ったのは、かつて御坂峠を越えて富士河口湖町や富士吉田市を歩いた時であったように思う。どこかの施設に置いてあったパンフレットからその存在を知りました。また坂本高雄さんの『山梨の草葺民家』(山梨日日新聞社)からも、かつての根場(ねんば)地区が「かぶと造り」の茅葺き民家が建ち並ぶ集落であったことを知りました。しかし戦後、台風の集中豪雨による土石流の被害のためにその集落はほぼ全滅し、その跡地に造られたのが「西湖いやしの里根場」であって、そこには「かぶと造り」の茅葺き民家が復元されているという。いつか行ってみたいと思っていましたが、先日富士山周辺の山歩きを思い立ち、まずは西湖あたりからと考えて、その根場を訪れてみることに。結局、「いやしの里根場」を起点にして、その背後の鍵掛峠から鬼ヶ岳(1738m)まで登っていくことになりました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
改めて『定本渡辺崋山』の『四州真景図』の第三巻図三「無題」を見てみたい。これは図二「潮来泉やより望図」に続くもので、次には図四「鹿島」、その次に図五「砂山」が来る。この順番から言って、これは「鹿島神宮別当寺」の「大神宮寺」を描いたものという推測も成り立ちますが、当時の「鹿島神宮」に崋山の絵に描かれるような大きな三重塔を持つ「大神宮寺」があったというのは、どうも疑わしい。では芭蕉も立ち寄ったという根本寺かというと、鳥居があって三重塔があるという神仏混淆の様子からこれも成り立たない。もちろん潮来の長勝寺でもない。となると、これは香取神宮のどこかからの景観を描いたものをもとに、おそらく潮来の宿「泉や」の一室で描いた絵ということになりますが、現在の香取神宮にはこのような景観は存在しない。芳賀徹さんは、『渡辺崋山 優しい旅びと』で、久保木良氏の説をとって、「香取神宮境内から鳥居越しに香取神宮寺を望んだものと考えられる」としています。では、崋山が訪れた当時、「香取神宮寺」に三重塔はあったのかというと、『利根川文化研究11』の「─『利根川図志』の今昔─香取山神宮寺について」(神勉)によれば、神宮寺は香取神宮の別当寺で、神宮の境内にあり、本堂のほかに総高八丈七尺五寸(約27m)の三重塔や経堂、愛染堂などもあったといい、それらは明治初年の「関東一と言われるほど凄まじい廃仏毀釈運動」によって破壊されてしまったのだという。崋山が描いた神宮寺は、明治維新を迎えて、香取神宮境内から消えてしまったことになります。以上から、この絵は、「鹿島神宮別当寺」の「大神宮寺」を描いたものではないことは明らかです。 . . . 本文を読む
銚子→利根川→関宿→江戸川→新川(船堀川)→中川→小名木川→江戸湊という、利根川・江戸川を利用した河川連絡航路が開け、深川番所が中川口へ移転して中川船番所が設置されたのが寛文元年(1661年)6月のことでした。中川船番所対岸から延びる新川(船堀川)は、江戸川・利根川水系とつながり、江戸~関東各地~信越・東北方面は、水運を中心に緊密な流通網で結ばれることになりました。江戸中期以降、「江戸地廻り経済圏」が進展していきますが、それはそのような水運を中心とする緊密な流通網の形成を背景としています。渡辺貢二さんの『高瀬船』によれば、銚子は承応3年(1654年)までは常陸川という細流の河口に過ぎず、河口である銚子に大型船の寄港は無理であったという。しかし元禄時代には拡幅工事が行われることによって千石船の銚子入港が可能となり、千石船が潮来まで川を遡(さかのぼ)ることができた、とのこと。河岸としての潮来の最盛期は元禄期ですが、それは千石船が接岸するようになったことと無関係ではないと思われます。千石船に積載された東北諸藩の年貢米は、潮来で川船に積み替えられて江戸へと運ばれていったに違いない。同じく渡辺貢二さんの『続高瀬船』によれば、「利根川高瀬船は他の高瀬船とは似ても似つかぬ巨船」であり、「北関東や奥州の米を江戸へ運ぶことを主目的に生まれ」たものでした。この「利根川高瀬船」が普及していくと、「利根の直船(じかぶね)」といって銚子から江戸までの直通便が増加し、今まで繁栄を誇ってきた潮来の地位は低下し、代わって利根川河口部の銚子の地位が上昇していったものと思われる。文化年間において、廻船問屋あるいは気仙問屋と称する問屋が、荒野村に3戸、新生村に1戸あって、諸藩廻米を除く奥羽地方の貨物の売り捌きを行っていたといい、また幕末の頃、銚子には仙台藩2棟・米沢藩1棟・磐城藩3棟・笠間藩1棟の穀倉があったという。利根川水系における河岸や河岸問屋・荷問屋の増加、利根川高瀬船の普及などが、かつての水運の要所としての潮来の地位(元禄期が最盛期)の低下をもたらした、とはいえないだろうか。 . . . 本文を読む
前に紹介したことがある水戸藩お抱えの船頭誉田嘉之助(よだかのすけ)の嘉永6年(1853年)の日記から、水戸藩の年貢米が江戸小梅の水戸藩蔵屋敷にどういうルートで運ばれたかを再確認してみたい。それは以下のようなルートでした。北浦の串挽河岸(鉾田)→北浦→浪逆(なさか)浦→潮来→牛堀→横利根川→利根川本流→境→関宿→江戸川→中川→江戸湾→隅田川→小梅の水戸藩蔵屋敷。誉田嘉之助は、この年2月6日から8月8日までの間にこの航路を4往復もしています。現在の神宮橋の下を通過して(もちろん当時ここに橋などは架かっていない)、浪逆浦から常陸利根川(北利根川)へと入り、牛堀より左折して横利根川を通って利根川本流へと出たのです。浪逆浦から水路を通って前川へと入った可能性もあるが、このあたりの詳しいルートはよくわからない。しかしこの誉田嘉之助の日記から、水戸藩の年貢米が北浦・鰐川・常陸利根川などを利用して運ばれていたことがよくわかります。北浦北端の串引河岸から先は巴川による水運の利用であったでしょう。では、誉田嘉之助が船頭として、串挽河岸から江戸小梅まで乗っていた船は何であったのかというと、年貢米を運んでいることから、これは言うまでもなく利根川高瀬船であったはずです。 . . . 本文を読む
『茨城の歴史 県南・鹿行編』(茨城新聞社)によれば、水戸藩においては庶民教育の機関として、郡奉行小宮山楓軒の建言により、文化元年(1804年)、小川に郷医の教育機関として「稽医館」が設立され、そして文化3年(1806年)には、学問を好む庶民を対象として「延方学校」が設立され、これらは、安政年間に設立された玉造郷校と潮来郷校と合わせ、「郷校」として再編され、ここでは神官や農民たちに文武を教え、尊王攘夷運動の核となった、といったことが記されています。水戸藩の庶民教育においては郡奉行小宮山楓軒の力が大きかったことがわかります。また同書には、「江戸を目指す廻船は銚子から潮来まで遡行し、そこで川船に荷物を積み換え」、「そして、下利根川付近の村々で川船が増加し、銚子湊でも川船を調達できるようになると、諸藩の蔵屋敷は次第に銚子湊に移っていった」との川名登さんの説が紹介されています。また、寛永9年(1632年)12月、「板久宮本甚兵衛」の船が米を江戸に運んでいるが、「板久」とは「潮来」のことで、この「宮本甚兵衛」が「潮来村の名主宮本家と何らかの関連があるものと考えられる」という指摘も面白い。 . . . 本文を読む
崋山はメモに「津宮より延方迄一里半許(ばかり)」と記す。「津宮」は河岸近くに久保木太郎右衛門(清淵)が居住しているところで、崋山はその屋敷を訪ねています。「延方」は、現在の潮来市延方であり、JR鹿島線の潮来駅の次が延方駅(鹿島神宮方向に向かって)。崋山が「延方」を意識したのは、そこに「延方学校」があったからに違いない。延方村に「延方学校」のもととなる塾が開かれたのは文化4年(1807年)のこと。当時の郡奉行は小宮山昌秀(楓軒)。小宮山は近隣の有力者と相談して孔子霊を祀る聖堂を建立。文化7年(1810年)には、藩費と地元民の資金により豪壮な大聖堂が再建され、「延方学校」の教育環境が整備されました。ここでは毎月2度の特別講義があり、水戸藩から特別に委嘱されて、津宮の儒学者である久保木清淵も講義を行い、また潮来の宮本茶村も講義を行ったという。したがって「延方学校」の存在を崋山に教えたのは、久保木清淵ではなかったかという推測が成り立ちます。そして同じく「延方学校」で講義を行い、よく知っている宮本茶村のことを崋山に紹介したのも、久保木ではなかったかという推測が十分に成り立ちます。久保木と宮本両人が講義を行った一般庶民のための「延方学校」。それへの注目が「津宮より延方迄一里半許」というメモになったのです。現在、その「延方学校」→「延方郷校」の跡地には県立潮来高校が建っているという。 . . . 本文を読む
崋山の『四州真景図』を見ていて、不思議に思うのは、香取→鹿島→息栖という、当時江戸庶民に人気があった「三社巡り」のコースをたどりながら、神社そのものの絵を描いていないこと。香取神宮へと至る道筋で見える香取の丘陵は描きながらも、香取神宮そのものは描いていない。そして鹿島神宮も、息栖神社も描いていない。そう言えば、神崎明神山は描きながらも、神崎神社そのものは描いていない。描いたのは「総州葛飾郡法漸寺」(これは現在の葛飾八幡宮で、当時は神仏混淆で、天台宗東叡山末寺)、潮来の「海雲山長勝寺」の「楼門」と、お寺ばかり。一枚、気になる絵がある。『定本渡辺崋山』では「無題(鹿島神宮別当寺、大神宮寺眺望図)」となっている絵がそれ。鳥居があって、その向こうの参道の両側に人家(茶店?)が並び、その奥にお堂のようなものと、その左奥に三重塔が見える。これはいったいどこを描いたものだろう。芳賀徹さんは、これをはじめは鹿島神宮境内から見た根本禅寺と考えたようですが、久保木良氏の教示により、香取神宮境内から鳥居越しに香取神宮寺を望んだものと考えられたようです。そうであるならば、崋山は香取神宮寺は描いても、香取神宮そのものは描かなかったことになる。鹿島の根本寺は芭蕉の関係で立ち寄っても、鹿島神宮は描いていない。息栖神社も描かない。その理由は、今のところ私には分かりません。 . . . 本文を読む
大久保錦一さん編著の『潮来遊里史』には、天保11年(1840年)の潮来にあった遊女屋が、「河内屋」「蓬莱屋」「千歳屋」「松本屋」「二葉屋」「松葉屋」の6軒であり、それらの遊女屋の遊女の出身地とその人数、割合が記されています。それによると、下総90人(64.3%)、常陸28人、江戸6人、越後5人、奥州2人、駿府2人、上野(こうづけ)1名、武蔵1名となっており、下総・常陸出身者が90%近くを占めていたことがわかります。潮来近辺の地方出身者が圧倒的に多かったということになります。一方で「越後5人、奥州2人」というのも気になるところ。崋山がメモする文政8年(1825年)当時の遊女屋は、「松本屋」「大和屋」「蓬莱屋」「河内屋」「庫太屋」「四目屋」の6軒。そのうち「河内屋」「蓬莱屋」「松本屋」が、15年後の天保11年の時点でも残っていることになります。経営者が変わり、店の名前が変わったところもあるということでしょうか。「河内屋」は、享和元年(1801年)の記録にその名が見え、明治維新前後にもその名前が見えるから、江戸時代後半に、比較的長く続いた遊女屋であったようです。崋山が『四州真景図』「潮来花柳」で描く「大門」左手の、簾(すだれ)をまきあげ、障子を川風に開け放った2階建ての遊女屋は、さて、何という名前だったのだろう。また路上で挨拶を交わしている赤い着物に黒い帯の遊女たちや、禿(かむろ)と思われる女の子の出身地は、いったいどこであったのだろう。 . . . 本文を読む