鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.10月取材旅行「延方~息栖神社~利根川大橋」 その最終回

2011-10-28 05:19:53 | Weblog
 「横瀬舟溜および樋門」を左手に見て、横瀬水門を右に見て進んで行くと、堤防上の歩道は「通行止」となり、その先は土嚢(どのう)が多数置いてあって歩くことができないようになっています。そしてその先やや右側奥に「常陸川水門」の「閘門」が重なって並び、その右手に「水門」が横に延びているのが見えました。

 その「横瀬水門」の左手先一帯は、水上レジャースポーツの拠点のような施設となっており、洒落た飲食施設や休憩施設、レジャーボートの置き場、駐車場などがあって、若い人たちで賑わっていました。

 そのあたりの土手道は、しかし、ずっと土嚢やブルーシートなどで覆われています。

 土手下の砂利道に入って、ようやく常陸川水門の「閘門」のところに至ったのが15:50。

 巨大な「閘門」の並びは、まるでパリの凱旋門が並んでいるようであり、また右手に長く延びる「水門」は、まるで空港の管制塔の並びのように見えます。しかもその「水門」は、手前の常陸川だけでなく、その向こうの利根川にも及んでいます。

 この「常陸川水門」の水域は通航禁止となっており、「閘門」のところが午前7時から午後5時まで、「速度2ノット以下」で通航可能となっています。

 それを示した「公告」には、「国土交通省関東地方整備局長 霞ヶ浦河川事務所」と記されています。

 水門の真横に出ると、そこから見た水門の並びは圧倒的な迫力を持っていました。

 この「常陸川水門」の北東側にある「常陸川小閘門」は、コンクリート壁にはめこんである銘板によると、設置年月は「平成2年6月」と比較的新しいものでした。

 その銘板を見て、「常陸川水門」の歩道を歩きだしたのが15:53。

 左側を通過する大型トラックの風圧でかぶっている帽子が飛ばされないよう、時折手で帽子を押さえながら歩きました。歩行者も自転車もまるで姿は見えず、車道を車がひっきりなしに往来します。

 中洲の突端のようなところに出たのが15:57。中洲は北西方面(上流方面)へとずっと延びており、そこへと延びる道が直角に右折しています。左手はすぐに中洲の突端となっています。

 ここで「常陸川水門」は終わりとなり、その先は利根川となって、その利根川にも「水門」が、「常陸川水門」の続きのように続いています。

 さすがに利根川本流だけあって、常陸川よりもさらに川幅が広い。

 地図を見ると、「常陸川水門」を含めて、常陸川・利根川とまたがる水門全体を「利根川大橋」というようですが、これは橋と水門が一体化した施設で、いわゆる「橋」から一般的にイメージするものとは大きく隔たりがあります。

 「定礎 昭和41年12月」と銘板がはめ込まれているから、昭和41年(1966年)に建設されたものであるでしょう。

 黒部川の水門を右手に見て、その「利根川大橋」を渡りきったのが16:10。

 渡りきるのに17分もかかりました。

 渡りきったところの左手に、「ようこそ東荘の地へ 東庄町」と記された看板と、「利根川河口堰管理所 展示ホール トイレ・休憩所 ←P 」という看板がありました。「展示ホール」に興味が惹かれましたが、時刻が16時過ぎということもあり、立ち寄ることを断念しました。

 そこから通りは、下総台地の方に向かってまっすぐに延びており、途中の電信柱には「東庄町新宿」と地名表示が施されています。

 この通りをそのまままっすぐに歩いて行けば、行く手に見える下総台地の手前でJR成田線にぶつかるはず。

 小見川のビジネスホテルに宿をとっているので、急ぐ必要もありません。

 JR成田線の「下総橘駅」を目指して、「利根川大橋」から続く道を歩いていきました。



○参考文献
・『高瀬船』『続高瀬船』渡辺貢二(崙書房)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿