鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.9月取材旅行「潮来~鹿島神宮」  その7

2011-10-04 05:46:23 | Weblog
『茨城の歴史 県南・鹿行編』(茨城新聞社)によれば、水戸藩においては庶民教育の機関として、郡奉行小宮山楓軒の建言により、文化元年(1804年)、小川に郷医の教育機関として「稽医館」が設立され、そして文化3年(1806年)には、学問を好む庶民を対象として「延方学校」が設立され、これらは、安政年間に設立された玉造郷校と潮来郷校と合わせ、「郷校」として再編され、ここでは神官や農民たちに文武を教え、尊王攘夷運動の核となった、といったことが記されています。水戸藩の庶民教育においては郡奉行小宮山楓軒の力が大きかったことがわかります。また同書には、「江戸を目指す廻船は銚子から潮来まで遡行し、そこで川船に荷物を積み換え」、「そして、下利根川付近の村々で川船が増加し、銚子湊でも川船を調達できるようになると、諸藩の蔵屋敷は次第に銚子湊に移っていった」との川名登さんの説が紹介されています。また、寛永9年(1632年)12月、「板久宮本甚兵衛」の船が米を江戸に運んでいるが、「板久」とは「潮来」のことで、この「宮本甚兵衛」が「潮来村の名主宮本家と何らかの関連があるものと考えられる」という指摘も面白い。 . . . 本文を読む