「鰐川大橋」を渡ると、左手に道路標識が現れましたが、それには「↑銚子 ←鹿島港」とあり、その左隣の看板には「カシマサッカー場←」とありました。
右下の「鰐川」の左岸には「鰐川 わにがわ」と記された看板が立っています。
橋を渡りきって右へと折れ、常陸利根川の方に向かって進むと、遊具や展望台のある公園があり、その名前は「なさか夕日の郷公園」というものでした。
「なさか」はもちろん「浪逆浦」の「なさか」。この公園の展望台からは、常陸利根川や「外浪逆浦」の広大な水面を真紅に染めて、対岸の丘陵の稜線に沈んでいく美しい「夕日」の景観をみることができるのでしょう。
常陸利根川の岸辺に出ると、そこには「河川名境界 常陸利根川(外浪逆浦)(左岸)←終点2.75km地点 鰐川(左岸)→起点0.00km地点」と記された標示が立っていました。
そこからしばらく進んで左手にあったのが、赤い「水神宮」という文字が目立つ額が石鳥居に掛かる、コンクリートの参道がまっすぐに延びる神社。樹木に囲まれたその奥には石祠がありましたが、比較的新しいもののように思われました。
「下幡木舟溜」が岸辺に現れたのは12:02。岸辺に岸壁のようなものが四角く突き出ており、その中に屋根のあるレジャーボートや屋根のないボートが7隻ほど繋留されていました。
このような「舟溜」があるということは、この常陸利根川の左岸の内陸一帯も、干拓地であるのかも知れない。
つまり左岸一帯もかつては「浪逆浦」の湖面であったということ。
次に現れた「舟溜」も小さいものでしたが、8隻ほどの漁船が繋留されていましたが、1隻は陸地に上げられており、そのやや朽ち果てたボートの運転席の部分には雑草が生えていました。
やがて左手に樹木の繁りが見え、そこに白い案内板らしきものが立っているので近寄ってみると、それには「九人坊」とあって、次のようなことが書かれていました。
「現在のように陸上交通が発達する以前、利根川は江戸に通じる重要な交通路として多くの舟が行き来していました。
この下利根川地方は水上交通の要地でありました。けれど川幅が狭く、多くの中洲があるために水の流れが悪くたびたび水害にみまわれました。
昭和五年に利根川の改修工事が終了する前までは利根川は外浪逆浦にそそぎこんでいたため、増水時には、この水は外浪逆浦を逆流し、北浦・霞ヶ浦まであふれ出すといった状況で、特に賀地区は外浪逆浦と利根川の合流地点だったため、水上交通の難所でもあったのです。
この賀地区には『九人坊』と呼ばれる場所があり、ここには次のような伝説が残っています。」
その伝説の内容とは、昔、九人の僧侶が船に乗って鹿島の祭りに行ったものの、祭りの帰りにいたずら心を起こして、鹿島神宮の鹿をつかまえてその肉を食べてしまったというもの。その帰り道、この難所でいきなり突風が吹き始め、僧侶たちが乗っていた船は転覆し、九人とも遭難してしまったという。そのことを憐れんだ賀の村の人たちが石碑を建てて死んだ僧侶たちを供養したというもの。
そして
「今もここは『明治九年十月廿日再建惣村中』と書かれた遭難した人々の供養塔が建っています。」
と案内板の文章は結ばれています。
この案内板の記述から判断すると、この「九人坊」がある賀地区の場所は、外浪逆浦と利根川(常陸利根川)の合流点であり、川幅は狭く、中洲がたくさんあった地域であったことがわかります。そのために水上交通の要所ながら、難所でもあったということ。
案内板のある樹木の繁りの中には、「文化三」や「三界萬霊」という文字が刻まれた石造物や石仏(立像)、屋根の下に置かれた石仏(2体・座像)などがありました。背後は広い原っぱのようになっており、その中に樹木の繁りだけが出っ張っているような風景。
利根川(常陸利根川)の改修工事や干拓などにより、この周辺の景観は大きく変貌しているものの、この「九人坊」のあたりは、江戸時代より陸地(中洲?)であったのでしょう。
続く
○参考文献
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)
右下の「鰐川」の左岸には「鰐川 わにがわ」と記された看板が立っています。
橋を渡りきって右へと折れ、常陸利根川の方に向かって進むと、遊具や展望台のある公園があり、その名前は「なさか夕日の郷公園」というものでした。
「なさか」はもちろん「浪逆浦」の「なさか」。この公園の展望台からは、常陸利根川や「外浪逆浦」の広大な水面を真紅に染めて、対岸の丘陵の稜線に沈んでいく美しい「夕日」の景観をみることができるのでしょう。
常陸利根川の岸辺に出ると、そこには「河川名境界 常陸利根川(外浪逆浦)(左岸)←終点2.75km地点 鰐川(左岸)→起点0.00km地点」と記された標示が立っていました。
そこからしばらく進んで左手にあったのが、赤い「水神宮」という文字が目立つ額が石鳥居に掛かる、コンクリートの参道がまっすぐに延びる神社。樹木に囲まれたその奥には石祠がありましたが、比較的新しいもののように思われました。
「下幡木舟溜」が岸辺に現れたのは12:02。岸辺に岸壁のようなものが四角く突き出ており、その中に屋根のあるレジャーボートや屋根のないボートが7隻ほど繋留されていました。
このような「舟溜」があるということは、この常陸利根川の左岸の内陸一帯も、干拓地であるのかも知れない。
つまり左岸一帯もかつては「浪逆浦」の湖面であったということ。
次に現れた「舟溜」も小さいものでしたが、8隻ほどの漁船が繋留されていましたが、1隻は陸地に上げられており、そのやや朽ち果てたボートの運転席の部分には雑草が生えていました。
やがて左手に樹木の繁りが見え、そこに白い案内板らしきものが立っているので近寄ってみると、それには「九人坊」とあって、次のようなことが書かれていました。
「現在のように陸上交通が発達する以前、利根川は江戸に通じる重要な交通路として多くの舟が行き来していました。
この下利根川地方は水上交通の要地でありました。けれど川幅が狭く、多くの中洲があるために水の流れが悪くたびたび水害にみまわれました。
昭和五年に利根川の改修工事が終了する前までは利根川は外浪逆浦にそそぎこんでいたため、増水時には、この水は外浪逆浦を逆流し、北浦・霞ヶ浦まであふれ出すといった状況で、特に賀地区は外浪逆浦と利根川の合流地点だったため、水上交通の難所でもあったのです。
この賀地区には『九人坊』と呼ばれる場所があり、ここには次のような伝説が残っています。」
その伝説の内容とは、昔、九人の僧侶が船に乗って鹿島の祭りに行ったものの、祭りの帰りにいたずら心を起こして、鹿島神宮の鹿をつかまえてその肉を食べてしまったというもの。その帰り道、この難所でいきなり突風が吹き始め、僧侶たちが乗っていた船は転覆し、九人とも遭難してしまったという。そのことを憐れんだ賀の村の人たちが石碑を建てて死んだ僧侶たちを供養したというもの。
そして
「今もここは『明治九年十月廿日再建惣村中』と書かれた遭難した人々の供養塔が建っています。」
と案内板の文章は結ばれています。
この案内板の記述から判断すると、この「九人坊」がある賀地区の場所は、外浪逆浦と利根川(常陸利根川)の合流点であり、川幅は狭く、中洲がたくさんあった地域であったことがわかります。そのために水上交通の要所ながら、難所でもあったということ。
案内板のある樹木の繁りの中には、「文化三」や「三界萬霊」という文字が刻まれた石造物や石仏(立像)、屋根の下に置かれた石仏(2体・座像)などがありました。背後は広い原っぱのようになっており、その中に樹木の繁りだけが出っ張っているような風景。
利根川(常陸利根川)の改修工事や干拓などにより、この周辺の景観は大きく変貌しているものの、この「九人坊」のあたりは、江戸時代より陸地(中洲?)であったのでしょう。
続く
○参考文献
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)
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