鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.10月取材旅行「延方~息栖神社~利根川大橋」 その5

2011-10-23 06:03:42 | Weblog
前川に沿って歩いた時に、川幅が急に広まってどんづまりのようになったところに水門があり、そのどんづまりの北側から用水路を小さな橋で渡って、土手沿いに歩いて、右手に震災の瓦礫置き場を見て、「東関東自動車道」に続くバイパスに出ましたが、あの前川の南側および東側一帯は、江戸時代の中頃からすでに干拓が進められていった地域であるようです。『茨城県立歴史館報10』の植田敏雄さんの論文(「水戸藩領潮来地方の新田開発」)によれば、潮来の二重谷(にじゅうや)、大洲、徳島は、江戸時代に、干拓による大規模な新田開発が行われたところでした。これらの地域は、前川の南側および東側一帯であり、「流水の運ぶ土砂の堆積により」「新洲」が常に形成されていた地域でした。中でも徳島は、東部は鰐川、南部は浪逆浦(なさかうら)に臨んでおり、防水堤もなかったために、新洲が形成されており、延宝元年(1673年)から本格的な開発が、水戸藩の保護・援助のもとに始められたという。「徳島新田集落」は延方村に付属し、文化12年(1815年)以降も新田開発を進めて、開発高を増加させていったとのこと。「天保郷帳」によれば1509石余の生産があったらしい。流水の運ぶ土砂の堆積による「新洲の形成という地域の特異性」が、大規模な干拓(新田開発)と開発高の増加につながり、水戸藩としてもかなりの保護・援助をこの潮来地域に対して行ったことがわかります。その開発された広大な新田を、崋山は「さっぱ舟」上から眺めていたわけですが、「潮来八人頭」の一人である宮本茶村(尚一郎)から、崋山は、この「浪逆浦」の新田開発の歴史について詳しく聞いてはいなかっただろうか。 . . . 本文を読む