鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「小樽 その6」

2008-09-09 05:15:12 | Weblog
『北門新報』が創刊されたのは、明治24年(1891年)の4月20日のこと。金子元三郎(23歳)が、北海道の世論の啓発を企図して、同志と相談して刊行したもの。東京で、日本亡命中の金玉均(日本名─岩田周作)と会って新聞発行のことについて相談し、金の紹介で兆民に会って、その主筆就任を願ったところ、兆民は快諾したという。兆民は、衆議院議員を辞職したばかり。兆民は「内地」の政治状況に愛想を尽かし、「窮屈な内地にあって窒息しそう」な精神状態でした。「自然豊かで資源に富んでいる」北海道にしばらく出掛けていって、今の言葉で言えば大いに「リフレッシュ」してみたいという願望がありました。旧知の渡辺千秋が北海道庁長官に就任したことも大きなきっかけでした。兆民は、避暑を兼ねて2ヶ月ばかりの滞在のつもりでしたが、北海道の広大な自然や事物の物珍しさに接するにつけ、心身ともにすこぶる健全を増し、今の自分が昔の自分ではなくなっていることを痛感しました。彼にとって北海道での見聞は、すべてが「愉快の種」であったのです。「今や…此地(このち)に来(きた)り、本道(北海道のこと)の山水に接すると共に一身の係累(けいるい)去って痕(あと)なく清風明月(せいふうめいげつ)座(そぞ)ろに今吾の昔吾にあらざるを感ぜり」。彼は「老母の身体に異変」なければ、「永く此地(このち)の山水と共に老ひん」と思ったほどでした。つまりこのまま北海道に骨を埋(うず)めることができたなら、とまで思ったのです。これは、兆民が小樽に到着してから一ヶ月後の談話でしたから、8月下旬の頃の兆民の感慨であったでしょう。それから数日後の9月2日、兆民は『北門新報』の社員、宮崎伝らとともに小樽の港から増毛(ましけ)行きの小型汽船に乗り、増毛から海岸線に沿って宗谷岬まで北上する旅に出かけたました。その旅で、兆民はどういう風景を見、どういう事物に遭遇し、どういうことを考えたのか。札幌・函館・小樽のような、内地の都会にさほど劣らぬような繁栄を呈するところから、わずかに隔てた地域から広がっている「一郡に二、三人の士人を見る寂寞(せきばく)たる孤村」の状況や現実を、彼はこの旅で目の当たりにしました。彼が、小樽から宗谷岬までの道筋で目撃した現実とはどういうものであったのか。それを実際に足を運んで探ってみるのが、今回の取材旅行の最大の目的でした。 . . . 本文を読む