鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「増毛 その4」

2008-09-17 06:04:14 | Weblog
 暑寒別川(しょかんべつがわ)に架かる橋を渡って、右手の海側の「秋田藩元陣屋第二台場跡」に着いたのは8:43。暑寒別川の河口部にある高台の上になります。左手には、歩古丹岳(ほこたんたけ)・天狗岳・雄冬山、そして暑寒別岳(標高1491.4m)が見える。その陸地の先端(右端)は日本海に豪快に落ち込んでいます。右手には留萌~天塩へと続く海岸線がずっと延びていて、その左端がなだらかに日本海に落ち込んでいます。その陸地と陸地の間が、日本海の広がりであり、その範囲がこの高台から見えるのです。

 案内板によると、この秋田藩元陣屋第二台場がいつ設けられたのかと言えば、安政4年(1857年)の5月のこと。その前年の5月に元陣屋が設けられていますから、それからちょうど一年後のことになる。古茶内三吉神社の台地に和製大砲3門(300目)の砲塁を築き、ほかに見張台や狼煙台(のろしだい)などを設けたという。

 陸地と陸地の間の日本海に異国船の船影が目撃されたなら、ただちに狼煙を上げて増毛の元陣屋に連絡をとったのでしょう。

 ここは第二台場。ということは第一台場があったことになりますが、これが、増毛駅裏の坂道を登ったところ(増毛灯台の下)にあった砲台でした。これも安政4年の5月、すなわち第二台場が設けられた時と同じ時期に設けられていました。しかし第一台場の場合、和製大砲3門に加えてドイツ製ホイッスル大砲1門が備えられいた、という点が違うところです。

 和製大砲が1門、観光用にか備えられていました。大砲は砲口を日本海の大海原に向けています。

 しばらくしてそこからまた増毛駅方面にとって返し、ちょうど9:00に、開店したばかりの「国稀酒造」の店内に入りました。

 店内に入ってまず目を引いたのは、東宝映画『駅─STATION─』関係の写真。高倉健などが「丸一本間酒造」などでロケをした時の写真です。「駅」は増毛駅であったのです。

 工場見学が出来るというので店の奥へと入っていきました。右手にお酒や特産物を売るコーナーがあって、大吟醸や吟醸原酒、吟醸酒などがところ狭しと並んでいます。これらはインターネットでも購入可能だとのこと。

 売店の女性にお聞きすると、もともとの酒の名前は「国稀(くにまれ)」ではなく「国の誉(ほまれ)」であったとのこと。「国の誉」は明治15年(1882年)より生産していました。しかし日露戦争の後に、地元戦没兵士たのために忠魂碑を建てることになり、この店の創業者(すなわた本間泰蔵)が東京に出かけて乃木希典(まれすけ)に会い、事情を言って字(忠魂碑の字か)を書いてくれるよう依頼。その時に乃木の人格に打たれた泰蔵が、乃木の名前の「希」をもらって、そのまま使うのは恐れ多いものだから、「稀」として、「国稀」の名にしたのだという。

 あとで、もらった国稀酒造の新聞で調べてみると、増毛出身の兵士たちは多くが旭川第二師団に入隊したのだという。旭川だから寒さに強いだろうということで、日露戦争の時には中国大陸の寒冷地に送り込まれ、二百三高地の攻防の際には、この旭川第七師団の兵士の多くが投入され戦死しました。増毛出身の兵士たちも多くがここで亡くなったのです。そこで本間泰蔵らが中心となって忠魂碑を造ろうということになり、本間と乃木将軍との出会いが生まれることになったというわけです。

 「国稀(くにまれ)」という名前に、そういう歴史が秘められているとは、売店の女性に聞くまでは知りませんでした。

 工場内を見て回った後、売店でお土産を購入し、玄関近くの土間のところで、ニシン漁に関するビデオを椅子に座って観賞しました。これが実によくまとめられた内容で、とても参考になりました。かいつまんでその内容をまとめてみます。

 蝦夷地におけるニシン漁は、当初(江戸時代中頃)は松前地方に限られていました。しかし漁獲高が減ってきたため、ニシンを追って北へ北へと移動していきました(これを「追いニシン」という)。そして天保11年(1840年)に増毛場所や留萌場所、鬼鹿場所などが生まれました。

 ニシンの漁期になると、番屋には各地から「ヤン衆」が集まってきて、その数は1番屋で200人を超えるほど。漁期が近付くと、番屋の冬囲いが外され、船蔵からはニシン船が出されました。ニシン漁で使われる船には、「汲み船」「起船(おこしぶね)」「枠船」がありますが、この「枠船」がニシン船になる。

 網蔵というものもあって、そこにはニシン漁で使う「建網(たてあみ)」が入れてあります。「ヤン衆」たちは、その網を網蔵から出して準備をする(「網起こし」)をします。

 2月末頃から春ニシンの周遊が始まります。ニシンが産卵のためにやってくるのですが、この大群のために海はニシンで渦巻き、海面が盛り上がるほどになります。海上ではこれまた無数の白いかもめが狂ったように飛び回ります。

 ニシン船に乗って海へ繰り出した「ヤン衆」たちは、日が落ちると、沖泊まりでニシンの大群がやって来る(これを「群来」〔くき〕という)のを待つわけです。

 「建網」は、海岸から700mほど離れたところに張られます。「建網」が設置されたところを「建て場」と言いますが、そこには「枠船」2隻が「枠網」を張っている。

 その「枠網」(建網)に入った大漁のニシンを、そのまま(枠網のまま)、浜辺まで運び、そして網揚げをするのですが、この網揚げをする船を「起船」というのです。「汲み船」というのは、ニシンを汲み取り、岸までニシンを運ぶ船のこと。

 岸で待ち受けていた女たちは、そのニシンを満載した木の箱を背中にしょって、「廊下」(開拓の村にありました)に運びます。

 このように沖上げされた大量のニシンは、「ニシン潰(つぶ)し」と言って、女たちによってえらや内臓が取り除かれ、21匹ずつ納屋に干され「みがきニシン」となりました。また8割のニシンは、浜辺などの平地に広げられた莚(むしろ)の上で天日(てんび)に干され、〆粕(ニシン粕)になりました。白子(しらこ)も干されて「干し白子」になりました。

 小樽や増毛、留萌などがニシン漁で最も栄えたのは明治20年代。

 つまり、兆民が増毛から稚内・宗谷岬まで馬の背中に乗って旅行した時(明治24年)は、その最盛期の真っ只中であったということになるのです。

 ニシン番屋としては、留萌の礼受の「旧佐賀家番屋」や小平町(こびらまち)の「旧花田家番屋」が、このビデオでは紹介されていました。とくに花田家番屋は、現存する最大規模のニシン番屋で、ニシン漁期の雇い人は500人前後もいたという(この旧花田家番屋はあとで目にすることになります)。

 ニシン漁場には、漁期になると「ヤン衆」ばかりか、東北地方などの農村部から「手間取り」と言われた女衆もやってきました。また多様な商人たちもやってきました。その商人や行商人たちが宿泊する旅館が、増毛や留萌などに次々と出来ていきました。また「ヤン衆」や商人たちを相手とする茶屋や遊郭なども出来ていきました。

 このビデオでは、「北前船」のことについても触れられていました。とくに福井や石川や富山、また新潟といった北陸地方とのつながりが深かったことを、あらためて知りました。

 豊かな商家の瓦はほとんどが越前瓦が使われていたらしい。福井の藤原窯業というところが紹介されていましたが、越前(や若狭〔わかさ〕)で作られた瓦が、三国や敦賀(つるが)といった港から「北前船」に積み込まれて北海道に運ばれたのです。

 一方、敦賀には幕末においても16を数える巨大なニシン蔵が岸辺に並んでいました(降伏した天狗党が閉じ込められたのはそのニシン蔵であったことは、敦賀や水戸を訪ねた時のブログで触れました)。三国においても同様であったでしょう。

 京都のニシンそばとの関わり。北海道西海岸各地のニシン漁場に祀られている稲荷社は、伏見稲荷大社の神さまを勧請(かんじょう)したもので、海上安全・豊漁を祈る対象でした。

 こういったことがらは、北海道(蝦夷地)と内地(日本海沿岸・上方〔かみがた〕)を結ぶ「北前船」の歴史を踏まえなければ、理解できないことであると言っていいでしょう。

 兆民が北海道を訪れた時、西海岸のニシン漁は繁栄の真っ盛りであり、「北前船」も汽船の登場などによって衰退を見せているとはいうものの、まだその姿を西海岸(小樽など)に見せていました。日本郵船会社の定期汽船(神戸~横浜~萩の浜~函館)は、小樽まで延長しようとする直前であり、小樽(手宮)~札幌~幌内(炭鉱)間には鉄道が走っていました。また日本郵船のいわゆる「社船」に対し、中小の「社外船」が、北海道の物産や輸送による利益を求めて、西日本から次々とやってくるようになった時期でもありました。

 当時の北海道の西海岸は、けっしてうら寂しい辺境の地ではなく、まさに活気にあふれていた土地であったということが言えるのです。


 続く


○参考文献
・『中江兆民全集⑬』「西海岸にての感覚」(岩波書店)
ネット
・「昆布巻」関係
・「三国」関係


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