「ずっと昔、明治時代に増毛(ましけ)からこの辺りを歩いて宗谷海峡まで行った人がいるんですよ。その人の旅した跡を調べてるんです」
「ほう、そうかい。この通りにはむかしは家が密集していたんだがね」
ということで、話が始まりました。
もともとは、おじさんは天売島(てうりとう)生まれ。若い時はニシン漁をしていたとのこと。
「腕を見ろ」
というので腕を見ると、私よりずっと小柄で体重だって少ないと思われるのに、黒く日焼けした腕は私よりずっと太くたくましい。
「さわれ」
というのてせさわってみると、腕の筋肉はコリコリとしている。
足も見せてくれましたが、やはり日焼けして黒く、そして太く、筋肉でコリコリとしています。手のひらも、私のようなやわな手ではなく、肉の厚い筋肉の付いた手のひらでした。
「年はいくつだと思う」
と聞かれたので、
「60後半ぐらいですか」
とおそるおそる答えると、
「86だ」
「へえー、86ですか」
思わず、頭の中で計算しました。86ということは、生年は1922年頃。ということは大正11年頃の生まれということになる。
「私の母が大正15年生まれでしたよ」
「ほう、そうかい」
「もう亡くなりましたが」
と話をしていると、家の中から、おばさんが出て来ました。ご主人の奥さんでした。
「私は83だよ」
私の母が生きていれば、これぐらいの年齢です。
3人で、玄関前で立ちながら話が続きました。
おばさんの方は、猿払(さるふつ)の生まれ。宗谷から東海岸を少し南下したところにある村です。小学校の頃は、漁の手伝いを呼びに行くために小学校を休まされて、歩いて隣の村まで行ったこともあるとのこと。
ここに定住したのはもう60年余も昔のことになるらしい。
60年前となると、1949年頃。まだニシン漁は盛んだった頃になる。
「家はここだったんですか」
「そうだ」
「浜辺に下りていったんですか」
と聞いたのは、ここは丘陵の上になっていて、海に行くためには崖を下りなくてはいけないはずで、しかも崖下は、「みさき台公園」から見た限りでは砂浜があるような感じではなかったから。
「崖には道がジグザグについていて、そこを下りていった。浜辺には船(ニシン船)が置いてあって、それで沖合いへ出たものだ」
「すると浜辺があったわけですね」
「浜辺はずっとあったよ。海の浸食で、今は下りれるもんじゃないさあ」
「浜辺があったということは、遠別(えんべつ)方面に行く時は、歩いて行ったんですか」
と聞くと、おばさんが、
「むかしは、馬の背に横座りになって遠別まで行ったもんですよ」
ということは、やはり兆民一行は、船水宗五郎の宿を出てからこの崖下の浜辺を馬に乗って遠別方面へ進んだことになります。
「ハマナスの花は、今の時期は咲いていますか」
とお聞きすると、おばさんが、
「ハマナスの花は6月から7月にかけて。今の時期は実がなっているよ。実がなる前に花が咲くの。ハマナスの実はおやつになったもんだよ」
「実は食べれるんだ」
「甘いよ」
「色はどういう色でしょう」
「うすいピンク色」
と言ったおばさんは、家の右手の庭の花を見せてくれて、
「この花よりもうちょっと色がうすい花だよ」
と教えてくれました。
途中、おじさんが用事で自転車に乗って通りをどこかへ走り去りましたが、その身のこなしの軽快なこと。とても86歳には見えない。
しばらくして用事を終えて帰って来たおじさん(これから「じいさん」とします)は、
座るための箱を三つ用意し、その一つに「座れ」と促し、どこからか座布団を持ってきて私にあてがった箱の上に乗せました。
それから椅子に座った3人は、いろいろと世間話をしました。
足腰を弱くしてはだめだということ。じいさんはどこでも歩いて、または自転車で出かける。初山別にも自転車でひとっ走りして買い物に行く(もっぱらじいさんが行く。おばさんも一時期足を悪くしたが、今は買い物などは歩くようにしているとのこと)。病院や老人ホームに入ってしまったら終わりだ。ベッドに寝たり車椅子に乗ったりして歩かなくなる。歩かなくなったらおしまいだ。このあたりにも1人暮らしのお年寄りは多いよ。わしはかみさんがいるから長生きしている(話し相手がいなかったらダメだ)。わしらは出稼ぎに来て知り合って結婚した。「かみさんはメンコかったよ」。2人で元気だから、お互いに元気だ。貯金をしておかないとダメ。わしは葬式のお金ぐらいはちゃんと貯めてある。小学校では歴史や地理が好きで、今でもよく覚えているよ(じいさんの方)。
「北は北海道から南は沖縄まで、都道府県名を全部言えるさ」
それも20秒から30秒で。
「聞いてみるかい」
「ええ」
びっくり、北海道から沖縄まで流れるように言い終わりました。
「県名で県庁所在地が違うところも全部言えるさ」
質問してみろ、というのでいくつか聞いたら全部合っていました。
「1兆円は、1万円札で言えばどれぐらいの重さになる?」
という質問も。ある時、計算したことがあるとのこと。
おばさんの方は、じいさんの声が大きくてどこへ行っても恥ずかしい思いをする、と言っていましたが、とても仲の良いご夫婦とお見受けしました。面白い、とても元気なじいさんでした。
話している間に、あっという間に10:00近くになったので、ご夫婦に促されて、お礼の挨拶をしてから倉庫の横に停めてある車に戻りました。
それから国道を戻って、初山別の老人福祉センターに向かいました。そこにいるのは、Tさんという97歳の方。朝10時から夕方近くまでを、そこで過ごしているのです。
どういう方なのか、想像をめぐらしながら車を走らせました。
続く
○参考文献
・『中江兆民全集⑬』「西海岸にての感覚」(岩波書店)
「ほう、そうかい。この通りにはむかしは家が密集していたんだがね」
ということで、話が始まりました。
もともとは、おじさんは天売島(てうりとう)生まれ。若い時はニシン漁をしていたとのこと。
「腕を見ろ」
というので腕を見ると、私よりずっと小柄で体重だって少ないと思われるのに、黒く日焼けした腕は私よりずっと太くたくましい。
「さわれ」
というのてせさわってみると、腕の筋肉はコリコリとしている。
足も見せてくれましたが、やはり日焼けして黒く、そして太く、筋肉でコリコリとしています。手のひらも、私のようなやわな手ではなく、肉の厚い筋肉の付いた手のひらでした。
「年はいくつだと思う」
と聞かれたので、
「60後半ぐらいですか」
とおそるおそる答えると、
「86だ」
「へえー、86ですか」
思わず、頭の中で計算しました。86ということは、生年は1922年頃。ということは大正11年頃の生まれということになる。
「私の母が大正15年生まれでしたよ」
「ほう、そうかい」
「もう亡くなりましたが」
と話をしていると、家の中から、おばさんが出て来ました。ご主人の奥さんでした。
「私は83だよ」
私の母が生きていれば、これぐらいの年齢です。
3人で、玄関前で立ちながら話が続きました。
おばさんの方は、猿払(さるふつ)の生まれ。宗谷から東海岸を少し南下したところにある村です。小学校の頃は、漁の手伝いを呼びに行くために小学校を休まされて、歩いて隣の村まで行ったこともあるとのこと。
ここに定住したのはもう60年余も昔のことになるらしい。
60年前となると、1949年頃。まだニシン漁は盛んだった頃になる。
「家はここだったんですか」
「そうだ」
「浜辺に下りていったんですか」
と聞いたのは、ここは丘陵の上になっていて、海に行くためには崖を下りなくてはいけないはずで、しかも崖下は、「みさき台公園」から見た限りでは砂浜があるような感じではなかったから。
「崖には道がジグザグについていて、そこを下りていった。浜辺には船(ニシン船)が置いてあって、それで沖合いへ出たものだ」
「すると浜辺があったわけですね」
「浜辺はずっとあったよ。海の浸食で、今は下りれるもんじゃないさあ」
「浜辺があったということは、遠別(えんべつ)方面に行く時は、歩いて行ったんですか」
と聞くと、おばさんが、
「むかしは、馬の背に横座りになって遠別まで行ったもんですよ」
ということは、やはり兆民一行は、船水宗五郎の宿を出てからこの崖下の浜辺を馬に乗って遠別方面へ進んだことになります。
「ハマナスの花は、今の時期は咲いていますか」
とお聞きすると、おばさんが、
「ハマナスの花は6月から7月にかけて。今の時期は実がなっているよ。実がなる前に花が咲くの。ハマナスの実はおやつになったもんだよ」
「実は食べれるんだ」
「甘いよ」
「色はどういう色でしょう」
「うすいピンク色」
と言ったおばさんは、家の右手の庭の花を見せてくれて、
「この花よりもうちょっと色がうすい花だよ」
と教えてくれました。
途中、おじさんが用事で自転車に乗って通りをどこかへ走り去りましたが、その身のこなしの軽快なこと。とても86歳には見えない。
しばらくして用事を終えて帰って来たおじさん(これから「じいさん」とします)は、
座るための箱を三つ用意し、その一つに「座れ」と促し、どこからか座布団を持ってきて私にあてがった箱の上に乗せました。
それから椅子に座った3人は、いろいろと世間話をしました。
足腰を弱くしてはだめだということ。じいさんはどこでも歩いて、または自転車で出かける。初山別にも自転車でひとっ走りして買い物に行く(もっぱらじいさんが行く。おばさんも一時期足を悪くしたが、今は買い物などは歩くようにしているとのこと)。病院や老人ホームに入ってしまったら終わりだ。ベッドに寝たり車椅子に乗ったりして歩かなくなる。歩かなくなったらおしまいだ。このあたりにも1人暮らしのお年寄りは多いよ。わしはかみさんがいるから長生きしている(話し相手がいなかったらダメだ)。わしらは出稼ぎに来て知り合って結婚した。「かみさんはメンコかったよ」。2人で元気だから、お互いに元気だ。貯金をしておかないとダメ。わしは葬式のお金ぐらいはちゃんと貯めてある。小学校では歴史や地理が好きで、今でもよく覚えているよ(じいさんの方)。
「北は北海道から南は沖縄まで、都道府県名を全部言えるさ」
それも20秒から30秒で。
「聞いてみるかい」
「ええ」
びっくり、北海道から沖縄まで流れるように言い終わりました。
「県名で県庁所在地が違うところも全部言えるさ」
質問してみろ、というのでいくつか聞いたら全部合っていました。
「1兆円は、1万円札で言えばどれぐらいの重さになる?」
という質問も。ある時、計算したことがあるとのこと。
おばさんの方は、じいさんの声が大きくてどこへ行っても恥ずかしい思いをする、と言っていましたが、とても仲の良いご夫婦とお見受けしました。面白い、とても元気なじいさんでした。
話している間に、あっという間に10:00近くになったので、ご夫婦に促されて、お礼の挨拶をしてから倉庫の横に停めてある車に戻りました。
それから国道を戻って、初山別の老人福祉センターに向かいました。そこにいるのは、Tさんという97歳の方。朝10時から夕方近くまでを、そこで過ごしているのです。
どういう方なのか、想像をめぐらしながら車を走らせました。
続く
○参考文献
・『中江兆民全集⑬』「西海岸にての感覚」(岩波書店)
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