ネットで「太田正敏氏翻刻 小樽郷土資料の紹介」という記事を見つけました。「その一」として「手宮発達の懐古」という記事もあり、明治30年前後の手宮をはじめとした小樽のようすがよくわかる資料です。こういう記事が見つかるのがネットの面白いところです。これによると、明治14年(1881年)8月30日の午後5時半、明治天皇が「手宮桟橋」に上陸しています。北海道巡幸のため。手宮~札幌~幌内間の鉄道、すなわち「幌内鉄道」は、幌内炭鉱の良質の石炭を内地に運ぶことを最大の目的にしていましたから、手宮駅構内には、貯炭所や貯炭場(石炭の野積場)があり、また粗末な事務所と、その横に船入澗(ふないりま)、そしてその向こう側の端に小さな桟橋がありました。その桟橋が、明治天皇が上陸第一歩を印したところでした。その手宮駅構内のようすは、それから10年後の明治24年(1891年)においても、ほぼ同じであり、またそれから5年後の明治29年(1896年)においても同様であったようです。函館から日本郵船の「遠江丸」で、7月27日の早朝、小樽港の沖合いに到着した兆民は、その「遠江丸」から艀(はしけ)に乗り、手宮駅構内にあった船入澗の小さな桟橋から、明治天皇がそうであったように、小樽上陸の第一歩を印したのです。石積みの岸壁のある船入澗の横には粗末な事務所があり、そして広大な構内には貯炭所や貯炭場(石炭の野積場)が見られたはずです。遠来の船客を迎えるために、早朝5時であるにも関わらず、桟橋近くの広場には多くの宿引や人力車が集まっていたに違いない。兆民は、その宿引の1人の指示に従って1台の人力車に乗り込み、そのまま色内町の「キト旅店」の玄関前まで運ばれたと思われます。では、当時の小樽の町のようすはどうであったか。この「小樽郷土資料」(市議会議員であった山谷敏行氏が昭和10年9月18日「小樽市郷土研究会」で刊行したものを太田正敏さんが翻刻したもの)の記事から、そのおおよそを推測することができます。 . . . 本文を読む