鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「風連別 その7」

2008-09-25 05:23:01 | Weblog
 老人福祉センターの玄関に入り案内を請うと、車椅子に乗った年輩の方がスタッフの男性に車椅子を押されて玄関口にやってきました。Tさんでした。

 名前と取材の目的をお話しして、さっそくTさんから話を伺いました。

 Tさんの生まれた年は明治44年(1911年)。母はチヨさん。チヨさんが生まれたところは富山県でした。父親の栄九郎さんも同じ富山県の生まれ。栄九郎さんもチヨさんも、よほど若い時に富山県から北海道にやって来たようです。

 増毛のお寺の庭園のそばで、両親が福井出身の方と出会いましたが、そのことを想起しました。

 チヨさんは、明治の終わり頃に、ここで旅館を開きました。名前は「越中屋」。生まれ故郷が富山県(越中国)てあるから、その名を付けたのでしょう。

 若い時は、ニシン漁の漁師として海に出たこともあるらしい。ニシンの大群が春先にやって来ると、海の色が白くなり、カモメが乱舞しました。ニシンは大量に獲れたものの、料理してニシンを食べたということはなかったそうです。

 T家はH家とともに風連別の網元でした。TさんはそのT家の二代目。二シン漁に出たのは若い時のしばらくの間で、間もなく漁業組合の事務的な仕事をやるようになったらしい。豊岬稲荷神社(朝、見て回ったところ)や初山別の真秀寺(ここの檀家)の建て替えにリーダーシップを発揮し、資金を村の人たちや檀家の人たちに募るなど尽力されました。

 この風連別に尋常小学校(現在の豊岬小学校)はありましたが、高等小学校はなく、初山別の高等小学校に1時間ほど歩いて通いました。尋常小学校から高等小学校へ上がったのはクラスの生徒のうち三分の一ほどだったという。

 橋の近くの商店(私が朝、立ち寄った店)は古く、大正年間には出来ていたとのこと。

 「ニシンはどうしてプッツリと来なくなったんでしょう」

 と、かねてから疑問のことをお聞きすると、

 「わからない」

 と一言。

 昭和29年以後、春ニシンがやってきたことはあるけれど、ほとんどまったくと言っていいほどニシンは来なくなったという。

 二シン漁で賑わっている頃の風連別で生まれ育ち、漁業組合で仕事をされて来ただけに、かつての村の賑わいに対する愛惜の念は人一倍強いように思われました。

 「時勢に従うしかない。人が減って行くんだから仕様がない」

 と言われたのが、印象に残りました。

 お礼を言って別れる時。Tさんは、右手をひょいと挙げて、「ありがとう」と言われました。

 老人福祉センターの駐車場に停めてあるレンタカーに乗り、国道に出て右折(12:00)。

 風連別川に架かる橋を渡り、あっという間に風連別の集落を通過。天塩方面に車を加速させました。


 ※風連別についてはこれで終わりです。

 続く

○参考文献
・『中江兆民全集⑬』「西海岸にての感覚」(岩波書店)


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