鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「天塩 その1」

2008-09-26 05:10:05 | Weblog
風連別(「フーレンペツ」)という地名は、松浦武四郎(たけしろう・1818~1888)の『近世蝦夷人物誌』にも出てくるようです。それによれば、フーレンペツには、「占(まじな)い師」クウシュイという者が住んでいたらしい。またここには通行人の宿泊のための番屋もあったという。道も「上道」と「下道」というものがあったとも。おそらく「上道」とは、崖上の丘陵をくねくねと遠別・天塩方面につながる道であり、「下道」とは、崖下の砂浜を同じく遠別・天塩方面とつながる道(波打ち際の道なき道)であったでしょう。風連別の土地の人の話によれば、「上道」はかつては曲がりくねった細い道で、丘の登り下りもあって、遠別へ行くにもたいそう時間がかかり、たいていは「下道」、すなわち崖下の海岸沿いの道を利用したとのこと。風連別には、通行人のための道があり、宿泊するための施設(風連別川の河口付近か)が幕末にすでにあったことが、松浦武四郎のこの記録からわかります。ちなみに松浦武四郎は、留萌・苫前・風連別・天塩などにおいて、この土地に住むアイヌの「人物」たちについての興味深い記録を残しています。さて遠別より天塩まではおよそ20km(五里)の行程。この間を兆民一行は原野の中の一本道をひたすら北上しました。この道行きにおいて兆民一行の目の前に展開された光景は、きわめて印象的なものでした。馬上から見渡す原野には、淡紅色のハマナスの花が一面に咲いていたのです。その美しさは「言語に絶えたり」としか表現できないものでした。しいて表現するならば、天に連なる緑の絨毯(じゅうたん)の上に「千億の珠玉を散らした」ような光景。その淡紅色のハマナスの花の群落の中に、後咲(あとざ)きの花も混じっていて、それらの花々の香気が、その群落の中を進む兆民一行を包み込みました。この鮮やかな「錦繍(きんしゅう)世界」を馬にまたがって乗り切った兆民一行は、その日の午後4時頃天塩に到着し、「駅伝」の「菊池某方」に入ったのです。明治24年(1891年)9月7日のことでした。 . . . 本文を読む