鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「風連別 その4」

2008-09-22 06:01:11 | Weblog
中江兆民が北海道西海岸を旅した明治24年(1891年)当時、苫前(とままえ)は「鰊(にしん)建網(たてあみ)五十余統」もある「西岸中大漁場」の一つとして人家が集まっていたようですが、築別(ちくべつ)には漁師の家は一軒しかなかったようだ。ここで兆民は、鱒(ます)の塩焼とノナ(ムラサキウニ)の塩辛をおかずにしてご飯を3杯も平らげています。よほど美味であったのでしょう。この漁家の主人とは実に面白い出会いであったようです。暴風雨でずぶぬれになった2人は、漁家に入ると囲炉裏端に座ってその家の主人に挨拶をしました。主人はぼろ服で髪の毛はぼさぼさ。本を読んでいた主人は、読んでいた本を傍らにおいて挨拶に答えました。兆民が、主人が熱中して読んでいた本を手に取ってみると、それは滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の「第九輯(しゅう)」(第9巻ということか)でした。主人の名を聞くと、青木宗吾。毎年焼尻島(やぎしりとう)に渡って二シン漁に従事しているのだという。二シン漁は2月末からせいぜい6月まで。その二シン漁を終えて苫前の自分の家に戻って来ているのです。主人は話の中で、焼尻島の斉藤という人物の人となりをいたく誉めたのですが、この斉藤の名前を兆民は知っていました。兆民が「少々関係」していた「金弦社」の社員であったからです。この「金弦社」がどういう団体であったかは今のところ私にはわかりませんが、兆民は、「それほどに面白い人なら、来年は自分も貴殿と同行して焼尻島に渡ってみたいものだ」と言います。それを聞いた主人は喜びを満面にあらわしました。外に出て馬の荷鞍を見た主人は、それでは痛かろうと、座布団2枚を家の中から取り出してきて、兆民と宮崎に貸してくれさえしたのです。外はますます風雨が増していました。雨のために水量が増した川を、馬とともに渡し舟で渡って、草が生えている海岸沿いの道なき道を進みました。押し寄せる波は馬の足の半ば(30cm前後)に達するほど。「唯一条の手綱」に生死は係(かか)っていました。2人の馬には馬子(まご)がついていたことがここの記述からわかります。馬子は泣きそうな顔で、「天塩まではなかなか行けるものではありません。風連別というところがこの先にありますから、そこで泊まることにいたしましょう」と2人を促しました。右手はそりたった崖、左は怒涛の日本海。兆民はその道中、漢詩を一首作りました。 . . . 本文を読む