鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「天塩 その3」

2008-09-28 05:45:59 | Weblog
新谷行(しんや・ぎょう)さんの『増補 アイヌ民族抵抗史』(三一新書)によれば、幕末において、「多くの和人が蝦夷に渡ってさまざまな見聞録を著しているが、これらはすべて物珍しげな目でアイヌ人を眺め、まるで獣の生態を見るごとく、その生活様式、風俗等々を記録しているだけである。」松宮観山の『蝦夷談筆記』も然り、最上徳内の『蝦夷草紙』も然り。しかし、「松浦武四郎の場合は違って」いました。「松浦は一八四五年(弘化二)に初めて蝦夷地へ足を踏み入れて以来、一貫してアイヌ民族を友とし、ついにはアイヌ同胞になりかわって、つぎつぎと請負人、出稼人、通辞など、和人の非道と不正を暴露して」いきます。彼の著作は膨大な数にのぼりますが、「そのどれにもアイヌ民族に対するかぎりない友愛の情が注がれていると同時に、和人の犯した非道な行為の数々を激しい怒りで告発している。このために松浦は松前藩の刺客につけねらわれ」ます。そして新谷さんよれば、松浦武四郎が蝦夷地の全島を歩いて最も怒りをこめて記録したのは、和人がアイヌの女性に対して行った行為でした。アイヌの女性たちの多くが、漁場の支配人や番人、出稼ぎ人などの和人によって「慰み者」とされ、妊娠した場合は堕胎させられているという現実でした。アイヌ民族の人口(松前地方居住の者を除く)は、文化年間から安政元年(1854年)にかけて2万6800余人から1万805人に急減。とくにひどかったのは、シャコタン(しゃこたん)場所から宗谷場所に至る地域で、文政5年(1822年)に6131人だったのが安政元年には3400人余になっていました。このシャコタン場所から宗谷場所に至る地域とは、兆民が旅した北海道西海岸の地域とほぼ重なります。兆民が旅したのは明治24年(1891年)であるから、安政元年(1854年)から36年後。この地域のアイヌの人口は、さらに激減していたことでしょう。明治になって開拓使が設置され(明治2年)、蝦夷地が明治政府の直接支配を受けるようになると和人の移住はさらに増加。漁撈や狩猟が大がかりになり乱獲が進んでいったことにより、アイヌの生活は窮迫の度を増すばかりでした。明治24年(1891年)において、全道人口は46万9088人、アイヌ人口は1万7201人。わずか3.67%を占めるに過ぎなくなっていました。ちなみに大正6年(1917年)には1%を割っています。 . . . 本文を読む