鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「増毛 その2」

2008-09-15 06:38:15 | Weblog
 小樽から増毛・留萌・天塩などを経て稚内まで結ぶ道路を、日本国内で天売島(てうりじま)だけに生息する鳥であるオロロン鳥(ウミガラス)にちなんで、「日本海オロロンライン」と言うようです。稚内に向かって北上していけば、左手には広大な日本海の海原がつねに広がり続けます。右手には小高い丘陵の崖(海食されたことによって形成された断崖か)が続きます。明治時代においては、現在のような海岸筋の道はなく、人々は波打ち際の砂浜伝いに移動したと思われます。丘陵上に道があったとしても、それは獣道のような細い道であり、しかもうねうねと曲がりくねり、高い丘陵にぶつかると山道を登ったり下りたりしなくてはならない。早く目的地に達するためには、日本海と丘陵の断崖に挟まれた狭い浜辺を進んでいくのが当時においては一般的であったでしょう。といっても小樽ないし増毛から稚内や宗谷岬までの距離は、なかなか歩いて行けるものではない。疲れずに長距離を移動する方法としては、馬に乗るのが唯一の方法であったに違いない(陸路の場合)。稚内や宗谷岬に行くためだけなら、わざわざ困難な陸路を利用する必要はなく、おそらく稚内に行く船が小樽から出ていたはずであるから、それに乗ればほとんど疲れることなしに目的地まで行けたのです。しかし兆民一行は、小樽から増毛までは汽船を利用しましたが、そこからは馬に乗って、陸路、宗谷岬まで進んだのです。ということは、日本海に面する北海道西海岸のようすをしっかりと自分の目で見ておきたいという意図があったということです。当時、小樽から天塩あたりにかけての日本海沿岸は、ニシン漁が盛んに行われていました。各地にニシン漁場があり、そこには集落が出来ていました。集落には、大きなニシン番屋やニシン船を入れておく倉庫があちこちにありました。小樽で北門新報社を経営する金子元三郎の「金子商店」も、このニシン漁場と海産問屋でその財力を培(つちか)ってきたのです。兆民がここを旅したのは9月の前半。ニシンの漁期は2月末からせいぜい6月まで。すでに漁期は終わり、集落は静けさを取り戻していました。その集落をたどりながら、海岸線を稚内に向かって進んでいった兆民の目に映った光景とは、いったいどういうものであったのか。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「増毛 その1」

2008-09-14 05:54:25 | Weblog
 中江兆民が初めて小樽の地に上陸したのは、明治24年(1891年)7月27日の早朝。その日の朝飯後、堺町の「北門新報社」(金子商店)を訪問した兆民は、それ以後、日々、北門新報社の「編輯局(へんしゅうきょく)」に通い、主筆として執筆につとめました。最初は、色内町の「キト旅館」に滞在していましたが、8月2日に、旧小樽郡長長森氏の相生町の別宅を借りて、そこへ転居。そこに社員1名と同居し、賄(まかない)の老婆を雇って「極(きわめ)て質素」な生活をすることに。  「是(ここ)に於いて余は北海道人と成れり」  と兆民は記しています。  小樽に到着してから一ヶ月ちょっと経った9月2日の夜、兆民は、増毛(ましけ)行きの汽船に乗船します。同行するのは、北門新報社員である宮崎伝と古川吉平。このうち古川吉平は社用で増毛まで同行。宮崎伝とは増毛から宗谷岬まで一緒に行動しました。宮崎ははおそらく案内人でもあったでしょう。増毛から西海岸(日本海側)に沿って北上し、北海道の最北端宗谷海峡に向かう旅でした。増毛港に到着したのは、翌9月3日の午後5時頃。この船には、『北海時論』の武藤金吉、中村齢助・白土宇平というものも乗り合わせていました(彼ら3人は宗谷に船で直行)。この増毛の旅店で風呂に入り朝食を摂った兆民と宮崎は、それぞれ馬に乗ってまず留萌(るもい)に向かって海岸線を出発しました。馬はおそらく道産子(どさんこ)。その馬の背中に、兆民らはまたがりました。兆民らは、広大な日本海を目の前にしながら、波が打ち寄せる海岸べりを留萌へと進んでいきました。兆民にとって、馬に乗るということは、これが生まれて初めての体験でした。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「北海道開拓の村 その1」

2008-09-10 05:56:39 | Weblog
小樽に到着した兆民は、金子元三郎を訪問し、その翌日28日には、「魁陽亭」という料亭で行われた北海道庁の新旧長官の送迎のための宴会に出席。ちなみに旧長官は永山武四郎、新長官は旧知の渡辺千秋でした。そしてその翌日29日には、渡辺長官とともに札幌に赴き、そこで『北海道毎日新聞』の社員である久松義典に再会し、ともに渡辺長官邸を訪問。そこで岡本監輔に再会し、飲食をともにしながら歓談しています。兆民が渡辺千秋新北海道庁長官とともに札幌に向かった手段は、幌内鉄道であったでしょう。手宮駅から汽車に乗り、札幌へと向かったのです。3時間近くの乗車時間だったでしょうか。小樽駅から札幌まで、私も鉄道を利用して行きたかったのですが、時間の関係で、レンタカーで高速道路を利用したため、残念ながら沿線風景は見ることができませんでした(札幌から小樽へ向かった時は、夜だったため沿線風景は見れなかったのです)。高速道路は小樽ICより入り、札幌市内の高架を走り、北郷ICで下りました。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「小樽 その6」

2008-09-09 05:15:12 | Weblog
『北門新報』が創刊されたのは、明治24年(1891年)の4月20日のこと。金子元三郎(23歳)が、北海道の世論の啓発を企図して、同志と相談して刊行したもの。東京で、日本亡命中の金玉均(日本名─岩田周作)と会って新聞発行のことについて相談し、金の紹介で兆民に会って、その主筆就任を願ったところ、兆民は快諾したという。兆民は、衆議院議員を辞職したばかり。兆民は「内地」の政治状況に愛想を尽かし、「窮屈な内地にあって窒息しそう」な精神状態でした。「自然豊かで資源に富んでいる」北海道にしばらく出掛けていって、今の言葉で言えば大いに「リフレッシュ」してみたいという願望がありました。旧知の渡辺千秋が北海道庁長官に就任したことも大きなきっかけでした。兆民は、避暑を兼ねて2ヶ月ばかりの滞在のつもりでしたが、北海道の広大な自然や事物の物珍しさに接するにつけ、心身ともにすこぶる健全を増し、今の自分が昔の自分ではなくなっていることを痛感しました。彼にとって北海道での見聞は、すべてが「愉快の種」であったのです。「今や…此地(このち)に来(きた)り、本道(北海道のこと)の山水に接すると共に一身の係累(けいるい)去って痕(あと)なく清風明月(せいふうめいげつ)座(そぞ)ろに今吾の昔吾にあらざるを感ぜり」。彼は「老母の身体に異変」なければ、「永く此地(このち)の山水と共に老ひん」と思ったほどでした。つまりこのまま北海道に骨を埋(うず)めることができたなら、とまで思ったのです。これは、兆民が小樽に到着してから一ヶ月後の談話でしたから、8月下旬の頃の兆民の感慨であったでしょう。それから数日後の9月2日、兆民は『北門新報』の社員、宮崎伝らとともに小樽の港から増毛(ましけ)行きの小型汽船に乗り、増毛から海岸線に沿って宗谷岬まで北上する旅に出かけたました。その旅で、兆民はどういう風景を見、どういう事物に遭遇し、どういうことを考えたのか。札幌・函館・小樽のような、内地の都会にさほど劣らぬような繁栄を呈するところから、わずかに隔てた地域から広がっている「一郡に二、三人の士人を見る寂寞(せきばく)たる孤村」の状況や現実を、彼はこの旅で目の当たりにしました。彼が、小樽から宗谷岬までの道筋で目撃した現実とはどういうものであったのか。それを実際に足を運んで探ってみるのが、今回の取材旅行の最大の目的でした。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「小樽 その5」

2008-09-08 06:38:36 | Weblog
ネットで「太田正敏氏翻刻 小樽郷土資料の紹介」という記事を見つけました。「その一」として「手宮発達の懐古」という記事もあり、明治30年前後の手宮をはじめとした小樽のようすがよくわかる資料です。こういう記事が見つかるのがネットの面白いところです。これによると、明治14年(1881年)8月30日の午後5時半、明治天皇が「手宮桟橋」に上陸しています。北海道巡幸のため。手宮~札幌~幌内間の鉄道、すなわち「幌内鉄道」は、幌内炭鉱の良質の石炭を内地に運ぶことを最大の目的にしていましたから、手宮駅構内には、貯炭所や貯炭場(石炭の野積場)があり、また粗末な事務所と、その横に船入澗(ふないりま)、そしてその向こう側の端に小さな桟橋がありました。その桟橋が、明治天皇が上陸第一歩を印したところでした。その手宮駅構内のようすは、それから10年後の明治24年(1891年)においても、ほぼ同じであり、またそれから5年後の明治29年(1896年)においても同様であったようです。函館から日本郵船の「遠江丸」で、7月27日の早朝、小樽港の沖合いに到着した兆民は、その「遠江丸」から艀(はしけ)に乗り、手宮駅構内にあった船入澗の小さな桟橋から、明治天皇がそうであったように、小樽上陸の第一歩を印したのです。石積みの岸壁のある船入澗の横には粗末な事務所があり、そして広大な構内には貯炭所や貯炭場(石炭の野積場)が見られたはずです。遠来の船客を迎えるために、早朝5時であるにも関わらず、桟橋近くの広場には多くの宿引や人力車が集まっていたに違いない。兆民は、その宿引の1人の指示に従って1台の人力車に乗り込み、そのまま色内町の「キト旅店」の玄関前まで運ばれたと思われます。では、当時の小樽の町のようすはどうであったか。この「小樽郷土資料」(市議会議員であった山谷敏行氏が昭和10年9月18日「小樽市郷土研究会」で刊行したものを太田正敏さんが翻刻したもの)の記事から、そのおおよそを推測することができます。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「小樽 その4」

2008-09-07 08:15:16 | Weblog
引き続きネット「小樽の歴史」より。ニシンの漁獲は、明治20年代は2万トンから5万トンの安定したものでしたが、明治27年(1894年)の大豊漁以来、次第に漁獲は減少。昭和に入るとさらに落ち込んで、昭和24年(1949年)には346トン、昭和29年(1954年)には1409トン。そして昭和30年以降、ニシンは全く姿を消してしまったという。小樽運河はいつ出来たかというと、明治も終わって大正に入ってから。大正3年(1914年)8月に着工し、すべての工事が完了したのは大正12年(1923年)12月のことでした。小樽運河は、地面を掘り込んで造ったものではなく、海岸から40mほど隔てたところを埋め立てて水路を造っていくというもので、埋め立て工事は北の手宮側から順次進められていきました。10年近くに及ぶ大工事でした。ということは、明治24年(1891年)、中江兆民が小樽にやってきた時の港のようすと、運河のある今の港のようすとは、大いに異なっていることになる。蝦夷地の探検家の1人である近藤重蔵は、文化4年(1807年)に、幕府の命を受けて蝦夷地西海岸を調査していますが、その報告書で「テミヤ」という天然の良港について触れています。それによると、「テミヤ」は、回船(北前船)の停泊が数十隻におよび、乗組員も数百人が越冬しているとし、「テミヤ」の港が北前船の停泊で繁栄していることを記しています。この北前船は 年1回往復の厳しい航海でしたが、得られる利益は大きいものがあったという。大坂から、酒・木綿・砂糖・塩などを積み込み、瀬戸内海から日本海に回って、敦賀で縄・莚(むしろ)等のニシン漁用具を、新潟や酒田で米・臼玉粉を積み込んで、一ヶ月から一ヶ月半で小樽に到着したという。小樽は天然の良港でしたが外洋(日本海)に向かって開いているため、北からの風が吹くと湾内に停泊している船に直接大波が押し寄せてきて、船が破壊されたり、岸壁にある港湾施設(倉庫)などにまで被害がおよぶことがあり、小樽湾の北側にようやく防波堤が建設されることに。それが完成したのが明治41年(1908年)のことだったとのこと。つまり、明治24年当時、小樽港には防波堤がなく、さらには埠頭もなかったらしい。石垣を積んだ「船入澗(ふないりま)」と呼ばれる岸壁のようなものが造られ、艀(はしけ)により積み下ろしが行われていたということです。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「小樽 その3」

2008-09-06 06:26:09 | Weblog
ネットの「小樽の歴史」によれば、「オタル」の地名の由来は、札幌から石狩湾の砂浜を大きく蛇行しながら流れていた「オタルナイ」(砂の中を流れる川)という川によるらしい。このオタルナイの河口に、松前藩の八木勘右衛門が漁場を開き、「和人」として初めて漁業を始め、この漁場を「オタルナイ場所」と名付けたのが「オタル」の起源であるようです。やがて入船川河口(現住吉町)にオタルナイ場所が移され、それ以後、入船川河口が、オタルナイ・オタナイ・尾樽内・小足内・穂足内とさまざまに変化し、明治2年(1869年)に最終的に「小樽」となったという。オタルナイ場所の繁栄は、二シン漁を抜きにしては考えられない。江戸時代の安永年間(1772~1780)、松前・江差方面からニシンの魚影が消え、ニシンの回遊はタカシマやオタルナイに移動。このニシン漁によりオタルの繁栄が始まりました。このニシン漁が栄えたのは江戸時代の後半から昭和の20年代まで。中江兆民がやってきた明治20年代においては、小樽地方の建網(ニシンを獲るために沖に張られる網・網の一組を「網一ヵ統」と呼ぶ)はおよそ200ヵ統。「ヤン衆」(漁夫)はおよそ5000人~6000人に及んだという。ニシンの大群が産卵のために海岸に押し寄せてくる(これを「群来〔くき〕」と呼ぶ)のは2月から6月にかけて。この時期には、「ヤン衆」と呼ばれる出稼ぎ人が東北地方等からやって来ました。彼ら「ヤン衆」にとって、ニシン漁で得る給金は農家における貴重な現金収入であったのです。彼ら「ヤン衆」という出稼ぎ労働者がニシン漁期にやって来て寝泊りするところを「番屋」といいますが、この「番屋」をこれからいくつも見ることになります。小樽から宗谷にかけての北海道西海岸においては、このニシン漁による繁栄の名残りをいたるところで垣間見ることができました。小樽の繁栄は、このニシン漁とともに「北前船」の回航にもその多くを拠っています。日本海には、およそ1700年代(江戸時代中期)頃より、大坂・九州・北陸と蝦夷地を結ぶ航路が開かれており、この航路には「弁財船(べざいぶね)」と呼ばれる和船が航行していましたが、これを別名「北前船」と呼んだのです。この「北前船」による日本海航路(海上輸送)が、経済的にも文化的にも極めて大きな役割を果たしていたことを実感したのが、今回の取材旅行の大きな収穫の一つでした。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「小樽 その2」

2008-09-05 05:35:16 | Weblog
渡辺千秋という人物はどういう人だったのか。渡辺千秋は、天保14年(1843年)に信濃国諏訪郡長地村(現長野県岡谷市長地)に高島藩士渡辺政徳の長男として生まれています。明治24年(1891年)当時、48歳。兆民よりも4歳年上。維新時には勤王派として活動したという。明治10年(1877年)、鹿児島県大書記官(県令に次ぐ高い官職)となり、明治13年(1880年)7月には鹿児島県令となっています。道路開鑿(かいさく)・蚕業振興に従事したらしい。明治24年(1881年)5月、大津事件処理のため滋賀県知事に就任。同年6月、北海道庁長官に転じ、道政を握る黒田清隆派と衝突したという。後、内務次官・京都府知事・枢密顧問官・宮内大臣などを歴任しています。大正10年(1921年)、78歳で亡くなっています。西南の役の時に鹿児島県大書記官となり、西南の役の後、鹿児島県令として、鹿児島県の民心の安定と産業の振興に尽力していること、また、明治24年(1891年)5月11日に、大津でロシア皇太子が巡査津田三蔵により襲われた事件(大津事件)の際、急遽、滋賀県知事に任命されてその事件の収拾に尽力したことなどが特筆される。その行政手腕が高く評価されていた政治家であったらしい。この渡辺千秋と中江兆民は旧知の間柄であったといいますが、明治24年の6月、同じ列車で上京する以前に、どういうことで2人の間に接点があったのか、今のところはわかりません。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「小樽 その1」

2008-09-04 07:22:43 | Weblog
函館駅を発車して間もなく、窓外に駒ケ岳の美しい山容が見え始め、やがて特急は海際ぎりぎりを走るようになりました。沖合い(内浦湾)には1隻の船も見えず。特急だから小さい駅は次々と振り切っていくように疾走します。時々窓外に見えてくる家々は、昔ながらの板張りの家はごく少なく、ほとんどが新建材の家。厳寒に備えての機密性の高い家が選ばれていることがよくわかります。町から遠く離れた数軒の家々が建つだけの集落を見ると、子どもたちはどのように学校に通っているのだろうか、と思われてくるほど。車の送迎があれはともかくも、歩いて通うとしたらなかなかたいへんだと思われる。八雲駅を過ぎると、いかにも北海道の風景を思わせるサイロが見えて来ますが、中には廃墟系のサイロもある。鉄道はずって海岸線際ないし海岸線からやや入ったところを走り続けます。長万部駅に停まると思っていたところが、特急はなんとここも通過(17:47)。虻田駅を過ぎると左手に有珠山が見えてきました。伊達紋別駅を通過する頃には、やや暮れかかってきて、東室蘭駅に到着した時(18:29)にはかなり夕闇が迫ってきました。特急「北斗17号」が函館駅を出発したのが16:43。東室蘭駅に到着したのが18:29。ということは、この「北斗17号」は、1時間46分も、どこの駅にも停まらずに疾走し続けたことになる。本州の特急においては考えられないこと。ここから苫小牧・南千歳・新札幌を経て札幌駅に到着したのが、函館駅を出発してちょうど3時間の19:43。ここで19:54発の小樽行きに乗り換えました。この電車は、出入口が、冷気が入らないよう二重になっていました。駅のホームの屋根も、雪が吹き込まないような工夫がされているようだ。例外的に郊外まで家並みが長く続いている札幌の市街を抜けると、外は漆黒の闇になる。小樽築港・南小樽を経て小樽駅に着いたのが20:35。函館からおよそ4時間の鉄道の旅でした。駅から歩いて、稲穂3丁目の「グリーンホテル別館」に入りました。素泊まりです。函館や札幌は仕事の関係でかつて来たことがありますが、小樽は今回が初めてとなります。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「函館 その6」

2008-09-03 06:05:41 | Weblog
ネット上で読むことが出来る「函館市史デジタル版」は、明治20年前後の函館について実にさまざまなことを教えてくれます。中江兆民が北海道に第一歩を印した明治24年(1891年)の函館は、実は、例年になく汽船の出入りが増加していました。明治18年(1885年)以前は郵船汽船三菱会社と共同運輸会社が、そしてその2つが合併した明治18年以後は日本郵船会社が、北海道においても、またこの函館においても、貨物や旅客の輸送のほとんどをになっていましたが、明治20年代になると、日本郵船会社の「社船」に対して、それ以外の会社の船(これを「社外船」と言った)による運送も活発化しました。北海道において、また函館において、なぜ明治24年に「社外船」である汽船の出入りが増加したのかといえば、「函館市史デジタル版」によれば、大阪以西の鉄道の敷設により、貨物が鉄道に奪われて、関連する荷物が減少したため、新規の得意先を北海道に求めて回航するようになったからだという。こういう状況があったためか、日本郵船会社は、明治25年(1892年)1月には、神戸~横浜~萩の浜~函館を結ぶ東回り航路(太平洋航路)を小樽まで延長することにしたのですが、これによって、今まで北海道の商権を掌握してきた函館は、その商権をやがて小樽に譲り渡していくことになりました。今まで、東京・横浜方面から北海道に行く場合、函館にいったん上陸し、そこから北海道各地に出かけていきました。中江兆民の場合も、萩の浜から「相模丸」で函館に入港し、函館で一泊してから、ふたたび汽船に乗り小樽へと向かっていました。しかし、函館で下船せずに小樽まで行けるようになったのです。この日本郵船の航路の小樽までの延長は、函館にとっては、大きな打撃となる出来事であったのです。中江兆民が初めてやってきた時の函館は、そのようになる前年の函館で、しかも例年になく多くの汽船(西日本の「社外船」)が出入りするようになっていた函館だったのです。一方、これから兆民が赴こうとしている小樽は、日本郵船会社の航路の延長により、これからさらなる発展を見せようとしている町であったとということになるのです。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「函館 その4」

2008-09-01 06:20:59 | Weblog
函館の写真歴史館の展示室の解説によれば、世界最古の写真は、ジョセフ・ニセフォール・ニエプス(1765~1833)が、1826年に写した「書斎の窓からの眺め」という写真。露光に8時間かかったという。ダゲレオ・タイプの銀板写真術を発明したのは、フランス人のルイ・ジャック・マンデ・ダゲールであったというのは前に触れた通り。彼が「ダゲレオ・タイプ」を発明したのは1837年で、それをフランスの科学アカデミーで公表したのが1839年。露光には当初20分もかかり、また器材一式も50kgを超えたという。気軽に持ち運びできるものではなかったのです。このダゲレオ・タイプの写真術はあっという間に世界に広まっていきますが、それが日本に伝わったのは、フランスの科学アカデミーでダゲールが公表してから9年後の1848年(嘉永元年)のこと。長崎にやってきたオランダ船が、ダゲレオ・タイプ・カメラ一式を長崎に持ち込みました。やがて箱館や横浜にもダゲレオ・タイプは入ってきますが、箱館の場合は、1854年(嘉永7年)のペリー艦隊来航の際、その艦隊に乗り込んでいた写真師E・ブラウン・ジュニア(1816~1886)が、そのダゲレオ・タイプで箱館の人々を写真におさめました。その後、ロシア領事館に洋服仕立職人として出入りし、ゴシケーヴィチより写真術を学んだ木津幸吉(1830~1895)や明治元年(1868年)に開業した田本研蔵(1831~1912)、「天才的写真研究家」といわれた横山松三郎(1838~1884)などの写真師が出てくるのですが、そのうち田本研蔵は、あの土方歳三の写真を撮った人物として有名。また写真歴史館には、中江兆民が初めて函館を訪れた明治20年代の函館市全景を写した写真が展示されていました。明治29年(1896年)に取り壊された函館砲台(弁天台場)が写っているため、それ以前の撮影のものと推定されるわけです。函館山上から写したもので、左端真ん中に函館砲台が写っています。浜町(現在の末広町・弁天町・大町)がしっかりと写っています。兆民が上陸した函館の町は、このような様子の町であったのです。この町並みは、やがて明治40年8月25日に発生した火事(函館大火)により、そのほとんどを失ってしまうことになりますが、その大火の時、あの石川一(はじめ・啄木)は、妻子や老母とともに青柳町の借家に居住していました。 . . . 本文を読む