鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「風連別 その6」

2008-09-24 05:26:19 | Weblog
 風連別の宿を出立した兆民一行は、ふたたび馬にまたがり、「ウヱンベツ」(遠別)で昼食を摂りました。ここもやはり一軒家。苫前から天塩まではおよそ20余里(およそ80km)。兆民の記すところでは、たいてい五里ないし六里ごとに人家が一軒宛(あて)の割合で存在しました。苫前→築別→風連別→遠別→天塩、といったところでしょうか。この一軒家は宿を兼ねていたようですが、どれも茅葺(かやぶ)・板戸で、わずかに炊煙を上げているのみの貧しそうな家でした。ところがこれほど貧しそうな家であるのに、兆民にとって、「怪訝(けげん)に堪(た)へざる一事」がありました。それは、どの家でも、客人に出す茶は必ず「玉露(ぎょくろ)」、飯は必ず「白米」であったこと。かつて四国や九州を旅した時の「山林田舎」のように、麦飯・粟飯・芋飯と、黒く煤けた茶壷で数日夜来煎(せん)じ続けた渋味の番茶を出すのとは大違いでした。兆民は、これを、小樽や札幌などの都会に植え付けられた「奢侈贅沢(しゃしぜいたく)の種子」が風に吹かれて、この僻遠の地まで流れてきて定着したものだとしています。たしかにそうかも知れないが、これはニシン漁の繁栄と無関係のことではないでしょう。この時期(9月初旬)、二シン漁の漁期は終わっており、一時期の賑わいは西海岸から消えていましたが、そのニシン漁による利益はこの地域の経済をそれなりに潤(うるお)していたに違いない。この「玉露」や「白米」は、まだ当時、小樽などに姿を現していた「北前船」などによって、上方(かみがた)や北陸・東北地方などから運ばれてきたものであったでしょう。 . . . 本文を読む