鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「小樽 その2」

2008-09-05 05:35:16 | Weblog
渡辺千秋という人物はどういう人だったのか。渡辺千秋は、天保14年(1843年)に信濃国諏訪郡長地村(現長野県岡谷市長地)に高島藩士渡辺政徳の長男として生まれています。明治24年(1891年)当時、48歳。兆民よりも4歳年上。維新時には勤王派として活動したという。明治10年(1877年)、鹿児島県大書記官(県令に次ぐ高い官職)となり、明治13年(1880年)7月には鹿児島県令となっています。道路開鑿(かいさく)・蚕業振興に従事したらしい。明治24年(1881年)5月、大津事件処理のため滋賀県知事に就任。同年6月、北海道庁長官に転じ、道政を握る黒田清隆派と衝突したという。後、内務次官・京都府知事・枢密顧問官・宮内大臣などを歴任しています。大正10年(1921年)、78歳で亡くなっています。西南の役の時に鹿児島県大書記官となり、西南の役の後、鹿児島県令として、鹿児島県の民心の安定と産業の振興に尽力していること、また、明治24年(1891年)5月11日に、大津でロシア皇太子が巡査津田三蔵により襲われた事件(大津事件)の際、急遽、滋賀県知事に任命されてその事件の収拾に尽力したことなどが特筆される。その行政手腕が高く評価されていた政治家であったらしい。この渡辺千秋と中江兆民は旧知の間柄であったといいますが、明治24年の6月、同じ列車で上京する以前に、どういうことで2人の間に接点があったのか、今のところはわかりません。 . . . 本文を読む