鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「増毛 その5」

2008-09-18 06:08:29 | Weblog
 中江兆民が増毛(ましけ)から、生まれてから初めて乗ったという馬はどういう馬だったのか。兆民は、北門新報社の社員である宮崎伝とともに、増毛で2頭の馬を手配してもらい、その背中に乗って海岸沿いの波打ち際を、まず留萌(るもい)に向かって進んだのです。明治24年(1891年)9月3日の午前8時前後であったでしょう。港近くの旅店で、2人は風呂に入ってさっぱりとし、朝飯もすませていました。宮崎の方はともかくも、初めて馬の背中に乗る兆民は、はじめのうちはおっかなびっくり。しかし二、三里も乗り続けると、もう「恰(あたか)も馭法(ぎょほう・馬を操る方法)の深奥(しんおう)を極めた」ようになり、「頗(すこぶ)る愉快」な気分を味わうほどでした。この馬は「道産子(どさんこ)」であったに違いない。この「道産子」を、今回の取材旅行で私が初めて目にしたのは、札幌郊外の「北海道開拓の村」。レール上のあのレトロな馬車を引っ張っていたのが「道産子」です。クリーム色の小柄な馬で、客を載せた重い馬車を引き終わっても(1日何度も往復している)平然とした表情で静かに立ち止まっていました。優しい顔と黒い丸い眼をしていました。「開拓の村」には道産子が3頭いるということですが、おそらく名前があるはず。うっかり聞き忘れてしまったので、ネットでいろいろ調べたところ、1頭が「リキ号」であることはわかりましたが、あと2頭は判明せず。私が乗った馬車を引っ張った、あの白い馬は何という名であったのだろう。増毛の 龍渕寺(りゅういんじ)というお寺の庭の真ん中には、馬頭観音がありましたが、あの「馬」とは、おそらく「道産子」であったと思われます。ということで「道産子」をネットで調べてみたところ、もっとも詳しかったのは、「馬文化ひだか」(日高路発馬文化情報サイト)。それによると、この「道産子」のもとになったのは、江戸時代、夏の間使役するために連れてきた南部馬であったという。つまり内地からやってきたのです。しかし冬期になって原野に放置されてしまったことにより(野生化したものもあったでしょう)、蝦夷地の気候風土に適応した馬になっていきました。江戸時代後期には、南部馬とは違った特質を持つ馬が成立していたらしい。正式名称は「北海道和種」。山林原野に周年放牧して飼育されるのが基本で、飼料は笹(ミヤコザサ)が中心であったということです。 . . . 本文を読む