鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「増毛 その3」

2008-09-16 06:01:51 | Weblog
増毛町という町名の由来は、他の多くの北海道の地名がそうであるように、アイヌ語に由来します。アイヌ語の「マシュキ二」または「マシュケ」は、「かもめの多いところ」という意味。ニシンの大群が海岸に押し寄せてくる(これを「群来」〔くき〕という)と、海一面にかもめが飛ぶことから、アイヌ語の地名が生まれたらしい。そのアイヌ語に漢字をあてはめたもの。ニシンの大群がやって来ると、海が盛り上がって見えたという。海は魚群で黒く見えると思いきや、白くなるという。それはニシンのメスが産んだ卵にオスが精液をかけるからだというのだから、その「群来」のすさまじさが想像できるというもの。そのニシンを餌とするかもめたちがこれまた数え切れないほど海上を飛び回り、甲高い鳴き声を一面に響かせるのです。そのニシンの大群の押し寄せた海に向かって、浜辺から顔を紅潮させた「ヤン衆」たちを乗せたニシン船が乗り出していく。女や子どもたちは、そんな男たちを浜辺で見送るのです。マシケ(増毛)が最初に歴史に登場するのは宝永3年(1706年)のことだという。この年、松前藩藩士・下国家がマシケ領を知行したのですが、しかしそれは文字の記録として登場するのであって、そこにはアイヌ語の地名からわかる通り、ずっとはるか昔からのアイヌの人たちの綿々たる歴史がありました。宝暦元年(1751年)に「増毛場所」が生まれますが、この「宝暦増毛場所」の時代から、増毛は豊富な水産資源に恵まれ、とくにニシン漁は多くの冨を増毛にもたらしました。増毛の歴史や文化を特徴づけるのは、そのような二シン漁の繁栄によるだけではなく、北辺防備のために津軽藩や秋田藩の陣屋が置かれたことも大きな意味を持っているように思われます。たとえば秋田藩の元陣屋の軽輩(下級武士)たちが、増毛への永住を願い出て増毛の地に残ることになりますが(永寿川などの地名の由来)、そのような侍たちの有していた文化(武士文化)が、この町の文化や歴史を豊かにしたであろうことは容易に推測されるところです。明治時代半ば以降、増毛は港湾・鉄道の整備が進められたこととニシン漁の繁栄によりさらなる発展を遂げ、その繁栄の名残りを今でも町の各所に見ることが出来るのです。 . . . 本文を読む