鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「風連別 その5」

2008-09-23 06:56:21 | Weblog
 「風連別」という地名はアイヌ語の「フーレンペツ」から来ているという。「フーレンペツ」とは「赤い川」という意味で、酸化鉄のために川底が赤味がかっていたことから付いた名前であるらしい。

 その旧道の旧風連橋の近くの商店に入り、ご主人に伺うと、かつてはこの川沿いに家がびっしりと建っていたという。新しい風連別橋の上から見た景色からは想像できないことでした。あと人家が密集していたのは旧道沿い。風連別川は、かつては岩が露出し、鱒(ます)も釣れたし、秋になると大量の鮭が遡上(そじょう)したとのこと。しかし昭和29年(1954年)を境にしてニシンはプッツリと来なくなり、やがて密集していた家も一軒一軒無くなっていったのだという。網元はHさんとTさんで、実はご主人の生まれた家が網元のT家でした。昔、ここから遠別までどうやって行ったのかを伺ったところ、崖下に浜辺が続いていて、そこを馬に乗って海沿いに遠別まで行ったとのこと。

 これは意外でした。

 というのは、「みさき台公園」の岬の展望台から見た、風連別から遠別・天塩方面の海岸は海食崖(かいしょくがい・波の浸食を受けて断崖が削られ、土が露出している)になっていて白い崖が延々と続いていたからです。とてもあの下を人馬が通うとは思えませんでした。丘陵の上の道(かつての旧道や現在の新しい道路が走っているあたり)を進んだに違いない、と判断していたからです。

 現地に足を運び、歩いて、そし「見る」だけではダメ。「見る」だけでは判断を誤ることがある。土地の人(昔から住んでいる年輩の人)に「聞く」ことの重要性を再認識した出来事でした。「歩く」→「見る」→「聞く」→「録(と)る」→「考える」→「書く」。これが現場を取材する際の鉄則です。現場で「五感」をフルに発揮させる。「五感」で取材をする。ある意味では真剣勝負です。「書く」のも、「頭」だけで書くのではなく、「足」で書く→「からだ」全体で書くということ。

 「ヤン衆」は小樽から、「女衆」は増毛からやってきたという。小樽からの船には日用雑貨品が積み込まれていました。ニシンを満載した船は小樽へと向かいました。つまりこの辺りの経済は、かつては小樽と船で緊密に結ばれていたことがわかります。

 店のご主人は、昔のことなら自分よりも「親父」の方がよく知っているから、と言われました。お年を聞くと、なんと97歳。今も元気で、むかしのこともよく覚えているとのこと。

 勢い込んで、

 「お話を伺えますか」

 と聞くと、

 「今、朝飯を食べているところだから」

 朝食に時間がかかるから、今は、無理だとのこと。

 「朝食を終えたら初山別の老人センターに行くから、そこでだったらゆっくり話を聞くことができるよ」

 「何時に出かけるんですか」

 「10時には行くから」

 「じゃ、10時に老人センターへ伺えばいいんですね」

 「うん」

 初山別の老人センターというのは、村社である稲荷神社の参道の前にあったまだ新しい立派な老人福祉センターのことであるに違いない。

 「じゃ、10時に伺いますから」

 「ヘルパーの人にはそう伝えておくから」

 ということで、ご主人のお父さん(97歳)に会えることになりました。耳も口もまだまだ達者であるらしい(食事には時間がかかるものの)。

 ちょっと立ち寄ったお店から、こういう取材が出来ることになる、というのが「想定外」のことで、これが取材旅行の醍醐味というものです。

 10時までまだまだ時間があるので、風連別の旧道沿いに集落を歩いてみることに。

 通りを行く集団登校の小学生7、8名を見掛けたので、声を掛けてみました。

 ここで横道にちょっとそれますが、私は、取材旅行の時に原則として小学生を含む若い人たちには声を掛けないようにしています。「不審者」に見られる可能性があるからです。若い人からすれば、どこの誰とも知れぬおじさんが、いきなり声を掛けてくれば、今のこういうご時世、気持ちの悪いことでしょう。私としても、何気なく声を掛けたことで不審者のように見られるのは愉快なことではない。「不審者」として見られて(相手は中年の女性でしたが)不愉快な思いをしたことは、何度かあります。それなりの対策はとっているつもりですが、人(観光客)があまり来ないようなところを、うろうろと歩き回っていれば、「不審者」と思われるのは当然かも知れない。

 だから親子連れでなければ、子どもや若い人には声を掛けないようにしているのです。

 しかし、今、目の前を行くのは集団登校の小学生。

 「学校はいつから始まっているの」

 と声を掛けると、

 「8月20日からです」

 という元気な声が返ってきました。

 「しっかりがんばってねー」

 と言うと、

 「ハイ、ありがとうございます」

 と礼儀正しい返事がありました。

 小学校は、川のやや上流右手に木の間から見える、小さいながらもこれまた立派な小学校でした(豊岬小学校。中学校と一緒のようだ)。

 旧道を遠別方面へ進むと、すぐに右手に神社が見えました。なだらかな参道を上がっていくと「豊岬(とよさき)稲荷神社」でした。そういえば初山別村の村社も稲荷神社でした。赤い鳥居を潜って後ろを振り向いたら、鳥居の間から海の方向に向かって伸びる参道と、その向こうの群青色の日本海が見えました。

 浄土宗法心寺跡地というものもありました。ここにはお寺もあったのです。

 もとの通りへ下りて右折。

 通り(旧道)を、人家のようすを眺めながらしばらく歩いていくと、家の玄関先で網をつくろっていたおじさんに、

 「何か調べ物でもしているのかい」

 と声を掛けられました。


 続く


○参考文献
・『中江兆民全集⑬』「西海岸にての感覚」(岩波書店)


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