鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「小樽 その3」

2008-09-06 06:26:09 | Weblog
ネットの「小樽の歴史」によれば、「オタル」の地名の由来は、札幌から石狩湾の砂浜を大きく蛇行しながら流れていた「オタルナイ」(砂の中を流れる川)という川によるらしい。このオタルナイの河口に、松前藩の八木勘右衛門が漁場を開き、「和人」として初めて漁業を始め、この漁場を「オタルナイ場所」と名付けたのが「オタル」の起源であるようです。やがて入船川河口(現住吉町)にオタルナイ場所が移され、それ以後、入船川河口が、オタルナイ・オタナイ・尾樽内・小足内・穂足内とさまざまに変化し、明治2年(1869年)に最終的に「小樽」となったという。オタルナイ場所の繁栄は、二シン漁を抜きにしては考えられない。江戸時代の安永年間(1772~1780)、松前・江差方面からニシンの魚影が消え、ニシンの回遊はタカシマやオタルナイに移動。このニシン漁によりオタルの繁栄が始まりました。このニシン漁が栄えたのは江戸時代の後半から昭和の20年代まで。中江兆民がやってきた明治20年代においては、小樽地方の建網(ニシンを獲るために沖に張られる網・網の一組を「網一ヵ統」と呼ぶ)はおよそ200ヵ統。「ヤン衆」(漁夫)はおよそ5000人~6000人に及んだという。ニシンの大群が産卵のために海岸に押し寄せてくる(これを「群来〔くき〕」と呼ぶ)のは2月から6月にかけて。この時期には、「ヤン衆」と呼ばれる出稼ぎ人が東北地方等からやって来ました。彼ら「ヤン衆」にとって、ニシン漁で得る給金は農家における貴重な現金収入であったのです。彼ら「ヤン衆」という出稼ぎ労働者がニシン漁期にやって来て寝泊りするところを「番屋」といいますが、この「番屋」をこれからいくつも見ることになります。小樽から宗谷にかけての北海道西海岸においては、このニシン漁による繁栄の名残りをいたるところで垣間見ることができました。小樽の繁栄は、このニシン漁とともに「北前船」の回航にもその多くを拠っています。日本海には、およそ1700年代(江戸時代中期)頃より、大坂・九州・北陸と蝦夷地を結ぶ航路が開かれており、この航路には「弁財船(べざいぶね)」と呼ばれる和船が航行していましたが、これを別名「北前船」と呼んだのです。この「北前船」による日本海航路(海上輸送)が、経済的にも文化的にも極めて大きな役割を果たしていたことを実感したのが、今回の取材旅行の大きな収穫の一つでした。 . . . 本文を読む