鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「天塩 その3」

2008-09-28 05:45:59 | Weblog
 兆民が「フンチヤさん、こんにちは」と気安く挨拶をすると、フンチヤ夫妻は大いに驚いた様子を見せました。そこでどうして自分がフンチヤさんの名前を知っているのかを話したところ、その場にいる人たちはそのわけを知って大笑い。彼らは兆民の話を理解できたのです。ということは日本語をある程度知っていたということ。

 その囲炉裏端には、たまたま3人のアイヌの男たちが座っていました。聞けば、日高地方の沙流(さる)というところから宗谷まで熊猟に出掛け、その帰途にここに一泊しているのだという。3人は3人とも、まだ日本〈シャモ〉の文明開化の悪習などに染まっていない生(き)のままのアイヌたちで、きわめて愛すべき人物たちでした。

 うれしくなった兆民は、「焼酒二升余を取寄せて」「一同に馳走」したところ、みんな大変に喜び、酒を酌み交わして酔いが回ってくると、おもむろに唄をうたい始めました。音声は清らかで曲調は悲しみを帯びている。北前節に似ているところもあれば法師歌に似ているところもある。

 兆民は囲炉裏端にいる3人のアイヌの男たちについて、フンチヤ夫妻に聞いたと思われる。

 「この人たちはご家族か」

 「いや、違います」

 「では、どういう人たちか」

 「日高の沙流に住んでいて、宗谷まで熊を獲りに行き、その帰り道に立ち寄った人たちです」

 日高の沙流地方から宗谷までは、そうとうな距離になる。熊猟に行くとしても、たいへんな距離で、兆民はアイヌの行動半径の広さに驚かされたことでしょう。

 「歩いて?」

 「ええ、歩いて」

 「熊猟は、そんなに利益になるのですか」

 その兆民の問いに、フンチヤ夫妻は、3人の男たちに聞いたかもしれない。

 「獲った熊の毛皮を和人に売っているのですが、それほどの利益にはならないそうです。家族の生活はいたって厳しいとのことです」

 日本人の間で熊の毛皮が珍重されていることは、兆民は知っていたに違いない。それがとても値段の張るものであることも。

 「熊の毛皮は、一枚どれぐらいの値段で取り引きされるのか」

 男たちが答えた値段は、兆民にとって驚くほど安いものだったのでしょう。

 兆民は、熊の毛皮の値段によって、アイヌと和人の商人との取り引きの実態というものを垣間見たのです。

 「わが同胞の日本人たち、特に貪欲で狡猾(こうかつ)な者たちが、舌先三寸で、水晶にて作りたる童子のようなアイヌたちを威嚇(いかく)し、騙(だま)し、その命を賭けて猟穫した熊の毛皮を安価でかすめとるような行為は実にはずかしい限りのことだ。開化とは清らかな衣を着た社会ということではないか。野蛮とは汚い衣を着たままの社会ということではないか。無情無残の日本人たちは、その泥にまみれた絹の服を着て、かのアイヌの汚れのない粗末な服を汚しているというのに、得意満面のようすではないか」

 痛烈な批判です。

 「清らかな衣を着た社会」とは、礼節を知る社会であると言い換えることが出来るでしょう。兆民にとって「開化」とは礼節を知り、それを高めていく社会の謂(いい)であったでしょう。自分だけの利益を「貪欲」にはかり、そのためにはどんな「狡猾」なこともするといった功利的な行動は、「開化」とは対極的なもの、すなわち「野蛮」そのものだと捉えられました。「我同胞」の日本人の1人として、そのような日本人が北海道の地で暗躍しているという実態は、兆民として恥ずかしい限りのことでした。

 いや、ことは北海道だけのことではない。内地においてもそうではないか。政治の世界において、今まで自分が経験してきたことは、まさに礼節を知らない、「野蛮」そのものの恥ずべき世界そのものではなかったか。日本の維新後の「文明開化」とは、つまりはそういうものに行き着くものであったのか。

 アイヌたちの唄の、清らかで悲哀に満ちた声調に耳を傾けながら、久しぶりの大酒(たいしゅ)に酔った兆民の心には、日本人の一人として、忸怩(じくじ)たる思いが湧き起こっていたに違いない。

 夜に入ってフンチヤ夫妻や沙流のアイヌの男たちと別れを告げた兆民は、宿へと帰途に就きました。沙流の3人とは、日高でまた会いましょうと約束を交わして。

 さて、美人として評判だったフンチヤの容貌や立居振舞はどうだったのでしょう。

 兆民の天塩での目的は、それを見るのが第一であったはず。

 しかし、そのことには一言も触れていません。

 兆民は、おそらく男たちの人柄とその話の内容に関心が行ったのです。そしてアイヌたちの唄の声調の見事さに。

 フンチヤも、そしてその夫も、一緒に歌ったのでしょうか。

 ところで、兆民は、心に期するところがあって、この北海道行きの初めから大好きであった酒を飲まないようにしていました。飲んでもせいぜい軽い晩酌程度であったでしょう。しかし、この日のアイヌたちとの交流においては、酒(日本酒?二升余)を取り寄せて、アイヌたちに奢(おご)っています。囲炉裏端で、魚か何かをつまみにしながら、アイヌたちと一緒に酒を酌み交わしたと思われます。久しぶりの美味しい酒であったでしょう。宿に戻ってからも「晩酌一飲」し、風連別までの紀行文を一気に書き上げています。

 ちなみに兆民は、明治30年頃から完全に酒を断ちました。その断酒に向けての志向は、この明治24年(1891年)の衆議院議員辞職による政界引退後から始まっています。


 続く

 ※これで天塩編は終わりです。


○参考文献
・『アイヌ民族抵抗史』新谷行(三一新書)
・『アイヌ近現代史読本』小笠原信之(緑風出版)
・『中江兆民全集⑬』「西海岸にての感覚」(岩波書店)


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