鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「稚内 その2」

2008-09-30 04:32:48 | Weblog
抜海(ばっかい)で右折して峻険な崖道を登って丘陵の頂上部に至った兆民一行は、そこから広がる景色に我を忘れました。今まで進んできた苫前からここまでの海岸の砂浜が、まるで大きな白い虹のごとく湾曲して伸び、青い日本海上にはコニーデ型の利尻山が白い雲とともに突出。その壮大な眺めに、兆民と宮崎はほとんど同時に、「快なり」と感嘆の声を発しました。それより坂を下り、だんだんと深くなっていく森の中を進んで行くと再び海岸に出ましたが、そこが稚内でした。今まで、増毛を出立して以来、鬼鹿と苫前を除いてはほとんど一軒屋かたかだか二、三軒の集落に過ぎなかったのが、この稚内には数百戸もの人家が密集している。その集落を望見して、兆民は「喜ばしきこと限無(かぎりな)し」との感慨を洩らしています。それまでの行路が、太古の風景はかくやと思わせるほどの、よほど寂寞(せきばく)としたものであったのでしょう。馬子の先導である宿に入ったところが、初めは気付かなかったけれどもそこは馬子やそれに類する人たちが宿泊する宿で、現に隣の席では馬子たちが賑やかに飲み食いしていました。兆民と宮崎が、笑いながら酒を飲み始めた頃、通りを歩いていた男の1人が、宿で酒を飲んでいる2人をじっと見ている。それに気付いた兆民と宮崎は、その男の顔を見て、瞬時にその男の姓名を思い出しました。小樽から増毛までの汽船に乗り合わせた『北海時論』の記者である白土宇吉でした。白土は兆民らと一杯付き合った後、ただちに立ち去り、同じく『北海時論』の記者である武藤金吉と中村齢助を伴ってふたたびやって来て、兆民と宮崎を促して、場所を替えさせ(別のところで飲んだのでしょう)、さらに案内して稚内総代の1人である木下某宅(旅館)に連れて行きました。白土・武藤・中村の3名は、増毛から汽船で稚内に向かい、ここ稚内にしばらく滞在していたのです。宿の主人木下某は人となり、きわめて質朴。その旅館は、小樽で言えば「越中屋」のような立派な建物でした。兆民は木賃宿からホテルに移ったような思いを抱きました。この日は海も空もすがすがしい青色に満ちていて、2階の部屋から海を見晴るかすと、なんとサガレン島の島影がはっきりと見えました。 . . . 本文を読む