鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「小樽 その4」

2008-09-07 08:15:16 | Weblog
引き続きネット「小樽の歴史」より。ニシンの漁獲は、明治20年代は2万トンから5万トンの安定したものでしたが、明治27年(1894年)の大豊漁以来、次第に漁獲は減少。昭和に入るとさらに落ち込んで、昭和24年(1949年)には346トン、昭和29年(1954年)には1409トン。そして昭和30年以降、ニシンは全く姿を消してしまったという。小樽運河はいつ出来たかというと、明治も終わって大正に入ってから。大正3年(1914年)8月に着工し、すべての工事が完了したのは大正12年(1923年)12月のことでした。小樽運河は、地面を掘り込んで造ったものではなく、海岸から40mほど隔てたところを埋め立てて水路を造っていくというもので、埋め立て工事は北の手宮側から順次進められていきました。10年近くに及ぶ大工事でした。ということは、明治24年(1891年)、中江兆民が小樽にやってきた時の港のようすと、運河のある今の港のようすとは、大いに異なっていることになる。蝦夷地の探検家の1人である近藤重蔵は、文化4年(1807年)に、幕府の命を受けて蝦夷地西海岸を調査していますが、その報告書で「テミヤ」という天然の良港について触れています。それによると、「テミヤ」は、回船(北前船)の停泊が数十隻におよび、乗組員も数百人が越冬しているとし、「テミヤ」の港が北前船の停泊で繁栄していることを記しています。この北前船は 年1回往復の厳しい航海でしたが、得られる利益は大きいものがあったという。大坂から、酒・木綿・砂糖・塩などを積み込み、瀬戸内海から日本海に回って、敦賀で縄・莚(むしろ)等のニシン漁用具を、新潟や酒田で米・臼玉粉を積み込んで、一ヶ月から一ヶ月半で小樽に到着したという。小樽は天然の良港でしたが外洋(日本海)に向かって開いているため、北からの風が吹くと湾内に停泊している船に直接大波が押し寄せてきて、船が破壊されたり、岸壁にある港湾施設(倉庫)などにまで被害がおよぶことがあり、小樽湾の北側にようやく防波堤が建設されることに。それが完成したのが明治41年(1908年)のことだったとのこと。つまり、明治24年当時、小樽港には防波堤がなく、さらには埠頭もなかったらしい。石垣を積んだ「船入澗(ふないりま)」と呼ばれる岸壁のようなものが造られ、艀(はしけ)により積み下ろしが行われていたということです。 . . . 本文を読む