ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

雨を楽しめないようでは、大人ではない。

2010年06月15日 | Weblog
「遊び上手が成功する」中谷彰宏著より。

ここでのタイトルは、「大人の遊びは、雨天決行。雨を楽しめないようでは、大人ではない」となっていた。蒸し暑くて不安定な空模様が続いている。もう梅雨だからしょうがない。快晴の日は貴重だ。

たとえば、気合いを入れて遊びや仕事をしようと思っていても、雨が続けば気持ちもなえてしまいやすい。雨が降ったら、こうしてみようというバリエーションを自分なりに工夫できれば雨の日ももっと違った気持ちで取り組めるのかもしれない。

もし、お気に入りや使いやすいショルダーバッグ、素敵な傘やレインコート、自慢できる雨靴などのレイングッズを持っていれば、雨の日が待ち遠しくなるのではないだろうか。少しぐらいの雨なら、少なくとも、何の準備もないときより少しは積極的に雨の日の外出もできそうだ。

もし土砂降りで外出不可能なら、この時とばかり、ふだん読めなかった本を読んだりや写真集を眺めてみる機会ができたと喜べるかどうか。また、自分なりの娯楽を考えておけば有意義に過ごせそうだ。晴耕雨読もこの季節ならでは、かも。

要は、自分なりに工夫をして雨のシーズンに備えたいものだ。じっとしていることほどもったいないことはない。雨の日もそれなりに楽しめるような大人になりたいものだなぁ~。

サービスというのは、喜ばせる側と喜ばされる側が、一緒に楽しむこと。

2010年06月14日 | Weblog
「遊び上手が成功する」中谷彰宏著より。

もし、接客業としてお客様にサービスするなら、お客さんが快適さを感じることは当然だろうが、自分もそれにやりがいを感じるかどうかだろう。もし即座に「かしこまりました、お安いご用です!」といってサービスできればどちらも気持ちがいいに違いない。

サービスを提供する側は、かわいいわがままを言うお客様に対して、そのわがままに応えていく楽しみがあるようだ。ここで、筆者が“かわいいわがまま”、という表現を使っているが、それはひどいクレームというほどのことではなく要望程度のものなのだろう。

お客様の期待、希望通りにサービスができ喜んでもらえれば、サービスした本人もやりがいを感じて仕事を楽しむことができるはず。サービス業に就く人はそんな喜びが次の仕事へのモチベーションになるのだ。

自分がお客としてサービスされる時も、サービスしている人が楽しんでいれば、それが伝わって、実に気持ちがいいものだ。その基本の一つは自然な笑顔かもしれない。

ただのマニュアル通りに作業しているサービスマンからは楽しさ、嬉しさは伝わってこない。ところが、たまにこの人サービスを楽しんでいるなぁ、と感じるときはこちらも嬉しくなるものだ。

遊びは、デザートみたいなもの。

2010年06月13日 | Weblog
「遊び上手が成功する」中谷彰宏著より。

中谷さんは、おなかがすいたから食べるのでは、遊びではなくて、ただの事務のようなものだという。つまり必然的にしなくてはならないことをやっているという意味だった。むしろ食事もそれ自体をもっと楽しむべきだということなのだろう。

だから、おなかがいっぱいの時に、「次、何食べる?」と相談できるのが大人の遊び人らしい。かなり気持ちにも余裕がなければそこまではいきそうもない。女性は、おなかがいっぱいでもデザートならまだ食べたりする。別腹というやつだろうか。

私などたとえ目が欲しくても、もう入らないだろうし、美味しく食べられない。遊びはデザートみたいだというのは、なくてもやっていけるからだ。むしろ、デザートは遊びだ、とも言えそうだと感じた次第。

ここまで書いてきたら、まだ20代の終わり頃、大先輩の部長に飲みに連れて行ってもらったことを思い出した。さんざん飲み食いをさせていただいたあとで、うまいうなぎ屋があるから行こう、とタクシーに乗って行ったことがあった。

実に遊びなれた部長さんだった。しかもこの時の太っ腹はカッコイイものだとも思えたな。大人の遊びってこういうものかもしれないと感じた次第。やはり気持ちもふところも余裕がないと・・・

大人の遊びとはお返し・・・

2010年06月12日 | Weblog
「遊び上手が成功する」中谷彰宏著より。

ここではチップを例に取り上げていた。日本ではそうしばしばチップという習慣もないだろう。子どもの頃、両親と一緒に旅行して旅館に泊まった際に、父は部屋を案内してくれた女中さんにさりげなくチップを渡していたものだった。

でも、今では料金のなかにサービス料というものが含まれているのでどうなんだろう。まあ、本当に気持ちがいいサービスを受けたなら、チップを払いたくなるかもしれないが。

私がまだ20代の頃、海外旅行先のホテルに泊まった時には、それが義務かと思って、朝ベッドの枕のところにいくらかのチップを置いたりもしていた。本当は必要かどうかもわからなかったが、旅行のガイドブックにそれがエチケットと載っていたからだ。

しかし、チップなどは慣れなければかなりぎこちないものだ。チップは別にお金だけでなくてもいいと中谷氏はいう。店でサービスをしてもらったら、次に行く時に知人を連れていくというのもありらしい。その店にお客さんが増えるのはいいことだからだ。

まずは、お礼をしたい!と思うほどウレシイことはどれほどあるだろうか。本当に感動するほどなら、お礼をして当然だろう。まあ、感受性の問題もあるだろうが。チップを渡すほどの余裕・・・今はないかなぁ~~~

大人の遊びでは、強いことより楽しめることが尊ばれる。

2010年06月11日 | Weblog
「遊び上手が成功する」中谷彰宏著より。

人間性はゲームなどで遊んでいる時に一番出てくるようだ。むしろ仕事では出てこないことが多いらしい。ゲームには勝ち負けはあるが、それだけでは面白くもない。むしろどれだけ楽しい時間を過ごせたかのほうが大事なのだった。

ゲームをやらせてみて、どれだけ楽しめるかで、その人の人間力までわかるという。ゲームでなくても、相手を楽しませるためには、それなりの知識、経験、オリジナル性、意外性などもポイントだと思える。

単なる受け売りではなく、その人なりのオリジナル性のある意見は興味深いものだ。へえ~、そんな考え方もあるものか、というような意外性は人を楽しませてくれる。

会社の会議室で面接をしても、その人の素が出てくるとは限らない。むしろ遊びやスポーツをしている最中にそれは出てくるのかもしれない。その遊びの一つとしていろいろなゲームもあるのだろう。

また仕事でそれなりの実績を残したところで、他人から見ればそれほど関心はないもの。むしろ、楽しんで仕事をしていることや、人の役に立っていることのほうが結果的にも印象に残ったりするな。

語れるものは趣味になる。

2010年06月10日 | Weblog
「遊び上手が成功する」中谷彰宏著より。

へえ~、こんなものまで趣味になってしまうのか、というものを中谷さんは趣味にしているという。それはなんと腕立て伏せだった。

遊びといって、必ずしもお金のかかるものだけではないということのようだ。大人には、こんな単純な腕立て伏せのようなものまで遊びになっていた。

学生時代の運動部ならただのトレーニングのひとつに過ぎない。中谷さんは、以前映画で見た片手腕立て伏せがカッコよかったから始めていた。ものごとを始める動機は意外に単純なことが多いものだ。

彼によれば、腕立て伏せは回数ではなく、反動をつけずに深く曲げることが大事なことだと指摘してる。つまりその方が効き目があるという意味だった。

腕立て伏せは複数の筋肉を使うという。また片手腕立て伏せをやると腹筋がかなり鍛えられることを実感している。普通の腕立て伏せは足は閉じているが、片手の時は足を開いてやるそうだ。

どこに力をいれどう支えるか、などいろいろあるようだ。また手を置く位置を変えてみるなど・・・。このように道具などなにもなくても、腕立て伏せだけでかなり鍛えられると経験から語っている。

結局ジムに通ったあげくに、中谷氏はここにたどり着いたという。腕立てといっても、かなり奥が深いものだな。しかも腕立て伏せは、全身に効いてくる運動のようだ。今では、逆立ち腕立て伏せをしているという。

う~む、確かにこれだけ語れるならば趣味ともいえるか。中谷さんは腕立て伏せについて、4ページ半も書いていた。さて、自分は何が趣味として語れるかなぁ~~

「・・・でいいや」というひと言が人生をつまらなくする。

2010年06月09日 | Weblog
「遊び上手が成功する」中谷彰宏著より。

これもほとんど無意識のうちに使ってしまう言葉だ。仲間同士でランチなどに出かけた時に、メニューをちょっと見ただけで、「日替わり(ランチ)でいいや」とか「A定食でいいや」などと言ってしまうもの。

「・・・でいいや」は、そのモノに対してかなり妥協したようなニュアンスがある。暗に、“できればもっといいモノがあればいいのだが、今はコレで間に合わせておくか”、とも感じ取れる。メニューの種類が少ない場合はそこから選ぶしかないかもしれない。しかも選ぶのが面倒な場合もそう言ってしまいがちだ。

まあ、私などはそれだけちゃんとしたレストランに行ってない証拠かもしれないが。できれば、メニューをいろいろと眺めてその時間を楽しめれば最高だろう。「・・・でいいや」にはあまりモノにこだわらないという感じもする。だからこそ、中谷氏はそんなひと言で人生がつまらなくなってしまうというのだろう。

「・・・でいいや」という言葉を耳にすることもあるが、あまり気分がいいものではないな。確かにこだわりがあれば、それなりにモノを知っていることでもあるから、その時間を楽しめるのかもしれない。ちゃんとしたレストランへ行って、「今日のおすすめはなに?」なんて言ってみたいものだなぁ~

楽しむためにはマナーが必要・・・

2010年06月08日 | Weblog
「遊び上手が成功する」中谷彰宏著より。

ふだんあまりマナーを意識したことがないものだが、身近なところでは公共の乗り物(電車やバス)に乗る際には、それを守らない人をみると改めてマナーの大切さを実感するものだ。

マナーに似たものにルールがある。スポーツにはルールがあり、それを破ればペナルティが課せられる。車なら即罰金ともなって、気持ちもふところも痛んでしまう。またルール(大げさに言えばきまりや法律)があるからこそ安心していられるし、楽しむこともできる。

ゴルフはそのルールが明文化されていない。遊びとして楽しむにせよ、スポーツとして考えるにせよ、お互いにマナーを考えなければ十分楽しめない。マナーには特別罰則はないが、だからこそより意識することが必要なのかもしれない。

ここでのタイトルは「礼儀正しい遊び人になろう」だったが、その礼儀正しさと遊び人は共存するという。これはあまり考えたことがなかった。大人の遊び人になるためには、勉強してマナーやルールを覚えなければならないようだ。

ところが、そんな遊びのマナーにつていは日本の学校ではほとんど教えてくれないものだ。結局自分たちが遊びを通じて身につけていくしかなさそうだ。学校や仕事から離れた遊びの場で学んでいくことも多そうだな・・・

人間は、努力を続けるかぎり、つまづくものだ。

2010年06月07日 | Weblog
「ギフト~E名言の世界~」5月号より。

これを、英語では、“Man will err as long as he sahll strive.”と書かれているが、実際はこれを語っているのはゲーテなのでドイツ語なのだ。『ファウスト』のなかのワンフレーズだった。

講師のパルバースさんのこだわりで、err(つまずく、失敗)と古めかしい言葉を使っている。また、striveは「懸命に努力する、奮闘する」という意味合いがあったのだ。

まあ、努力せずに寝てばかりいれば、失敗もないかもしれないが、面白さも感じられないだろう。チャレンジや努力をすれば、当然ながらそれなりに失敗はつきものだ。その失敗があるからこそ人は成長するということか。さすがゲーテの言葉は奥が深い。

パルバースさんは、さらにわかりやすい解説をしていた。「つまずくことは努力することであり、努力することはつまずくことだ」と。せいぜい、歩いたり走ったりしてもつまずかない努力をせねば・・・な。

運とは努力するほど増すものだと思う。

2010年06月06日 | Weblog
「ギフト~E名言の世界~」5月号より。

ここの章では「努力」ということがテーマになっていた。そこのメインには、人見絹枝(1907-31,陸上競技選手)の名言が掲載されていた。それは、「愚かなりとも、努力を続ける者が最後の勝利者となる。」だった。

彼女は1926年、スウェーデンの国際女子陸上競技大会にて、走り幅跳びで世界新記録を出し優勝し、また'28年にはアムステルダム五輪で800m銀メダルを獲得していた。日本女子スポーツ発展のけん引役を果たしていたのだ。

その後欧州を転々として、国別対抗戦などにも多数出場していたが、結核になってしまいわずか24歳でこの世を去ってしまった。本当に若くて大活躍した選手だったことがわかった次第。

さて、タイトルのフレーズにあげたのは、トーマス・ジェファーソン(1743-1826,アメリカの第三代大統領)の言葉だった。「私は運というものを強く信じている。そして、運とは努力するほど増すものだと思う」と述べていた。運とはタナボタ式にはやってこない。またボクシングでいうラッキーパンチとも違っていた。

運は努力するからこそやってくるものだと語っている。宝くじも買い続ける努力?でも、その前に資金が・・・。もっと違う努力をすべきかなぁ~~

褒美とは贈られるものではなく、勝ち取るものである。

2010年06月05日 | Weblog
「ギフト~E名言の世界~」5月号より。

ラルフ・W・エマーソン(アメリカの思想家)の言葉だったが、ここの部分全体のフレーズは下記のようになっていた。“Without ambition one starts nothing. Without work one finishes nothing. The prize will not be sent to you. You have to win it.”(野心がなければ何も始められない。努力しなければ何も終えられない。褒美とは贈られるものではなく、勝ち取るものである。)

フレーズとして実にわかりやすく書かれている。ここで、ambitionという単語が使われているが、これにはプラスのイメージとマイナスのイメージがあった。辞書で引けば、抱負, (…に対する)大望;功名心, 野心, 熱望などとでてくる。一般的には日本語では功名心、野心はネガティブな響きがあるが、英語のambitionの場合はいい意味で用いられるようだ。

さて、褒美は贈られるのをただ待つというより、むしろ勝ち取るべきというのは頷ける。しっかりと標的を定めて狙う努力を重ねてこそ手に入れられるものだろう。それでこそ達成感は味わえるに違いない。

さらに、講師のパルバースさんは、“You have to deseve it.”「褒美を受けるだけの価値を備えていなくてはならない」と補足していた。ただ単に勝ち取ればいいということではないらしい。こうなるとこのフレーズも実に奥が深い!、と思えた次第。

自分にはできないと思っていたことが、実はできるのだ、と知ること・・・

2010年06月04日 | Weblog
「ギフト~E名言の世界~」5月号より。

「達成」というテーマで書かれている部分で目にしたもので、ここでは自動車王、ヘンリー・フォードについて語られていた。そして、上記フレーズは次のようになっている。「ひとりの人間にとっての最大の発見、最大の驚きは、自分にはできないと思っていたことが実はできるのだ、と知ることである」と。

20世紀初頭には、自動車は高級品で一部の金持ちだけが持てるものだった。しかし、フォードはそれを安くして、より多くの人にその恩恵を被れるようにしたいと思っていたのだ。

あるとき食肉工場の流れ作業による解体作業からヒントを得て、それを自動車の組み立て工程に取り入れたのだった。すると作業効率はなんと、500倍に上がった。さらに賃金をそれまでの二倍にして優秀な人材を確保していた。

それまで、庶民が車を持つことは絶対無理だとあきらめていたが、フォードはそれに挑戦したのだ。結果的に車は大量生産され価格を大幅に下げることに成功し、大衆でも容易に車が乗れるようになったのだ。

倦怠感を創造性に変えるのは、鉛を金に変えるようなもの。

2010年06月03日 | Weblog
「ギフト~E名言の世界~」5月号より。

このテキストの講師パルバースさんの「創造について」のエッセイからのワンフレーズだった。氏の経験から語られている言葉は興味深い。それは42年以上も前に、突然インスピレーションがわいてきたときのことを覚えていたからだった。

彼が23歳でまだ京都で一人暮らしをしている時だった。ある時、朝起きると何をしていいのやら、また午後になると途方もない倦怠感に襲われていたという。3時間ほどすると、彼の言葉によると「一条の光に打たれたような気がして、ペンをとると短編を書きあげてしまった」という。

氏にとって最もクリエイティブになれるのは、しばらくアンニュイに陥ったときらしい。アンニュイは、辞書で引くと、「けん怠感、 退屈、 ものうさ」と説明されている。そんな自身の経験から、なにか創造的なことをする際には、焦らずに思いきって倦怠感を味わってみるのもいいかもしれないと氏はアドバイスしている。

きっとそのぼけーっとしている間にそれまで頭の中で混沌としていたものが、きっちりと整理されたのだろう。ただただ倦怠感だけを感じていても、それでいいのだろうかとも思ってしまう。やはり、それまでの智識の蓄積や思考の堆積があってこそ、鉛が金に変わる瞬間が訪れるのではないだろうか。

部屋の中のグリーンと向かい合う時間をつくってみてはどうだろう。

2010年06月02日 | Weblog
「メトロミニッツ」2010.6月号より。

毎日あわただしい時間を過ごしている間に、気持ちを落ち着ける時間と余裕を忘れてしまいがちだ。そして知らず知らずのうちにストレスをため込んでしまっているかもしれない。

気分転換が必要だと思うときもある。かといって、いきなり旅行やアウトドアライフを楽しむというわけにはいかない。それなりの準備も必要だからだ。

しかし、朝晩にお茶を飲んだり食事をするときに、そばにグリーンがあるだけでも、気持ちに余裕が生まれるようだ。やはり自然の緑は気持ちを和ませてくれる。とはいっても、いま部屋の中を見回しても緑の植物はなかった。

かろうじて目に入ったのが、先月末に家族の誕生日だったのでその時のバラが花瓶にいけられている程度だった。それも、半分は庭に咲いているバラを切り花にして挿しただけだった。花屋で買ったものより量が多くてちょっと見栄えがしている。

自宅の場合、家の中よりも庭に出た方が、たくさんのグリーンに触れられる。晴れた日の朝にはたいてい庭に出て、家庭菜園で育てている野菜などを眺めている。日々育っていく様子を見るだけでも気持ちが和んでくるものだ。

野菜を育てる、というよりもむしろ自分が癒されている感じがする。とくに、ミント、レモンバーム、ローズマリーなどのハーブの葉をつまんでそれらの匂いをかぐのが最近の癖になっている。ついつい地元のホームセンターに行くと、植物の苗などを買ってしまう・・・な。

植物を育てるのは、子どもを育てるのと同じ・・・

2010年06月01日 | Weblog
「メトロミニッツ」2010.6月号より。

特集は、“緑を楽しむ幸せライフ”だった。ちょうど、今の季節は新鮮な緑が豊富に目に入る。この二階の窓からも、とくに晴れた朝にはさまざまな木々の新緑が目に心地いい。さわやかな風に柔らかい葉をたっぷりつけた梢が揺れている。

さて、タイトルのフレーズ(=植物育ては子育てと同じ)のココロは、次のようなものだった。つまり、手をかけすぎてもいけないし、放任主義が度を過ぎてもいけない、という意味だった。

大事なのは、いつも目をかけてやって、変化に気づき、愛情を注ぐことだという。そうは言っても、なかなかきっちりとその通りにはいかないものだ。確かに、植物の場合はちゃんと土を耕し肥料や水やりを行い日がさしてくれれば、それなりに育ってくれるだろう。

しかし、場合によってはその年の気候の変化で生育が難しいこともあり得る。子育ても自我が出てくればなかなか親の言うことは聞かなくなってしまったり。う~む、難しい。自分だってそのころはわがままだったか・・・