素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

わが町にも歴史あり・知られざる大阪 / 大阪 毎日新聞 2019/7/20 より

2022年02月15日 | 日記
 毎日新聞の朝刊で「わが町にも歴史あり・知られざる大阪」という連載がある。i東高野街道を下って来て現在は中河内あたりに来ている。星田あたりも通ったはずなのでバックナンバーを調べてみたら、2019年7月20日に掲載されていた。当時は大正天皇に関心がなかったので読み飛ばしていた。

 あらためて読み直してみると陸軍特別大演習や行幸のことなどがきちっと書かれてあった。関係する部分を引用させてもらった。

 東高野街道は、JRの高架をくぐると西に折れ、星田駅前へ向かうのだが、そのまま直進する。と、道端の電柱のプレートに「御野立」とか「オノダチ」とある。これは前回見た「閲武駐蹕(えつぶちゅうひつ)記念碑」と大いに関係がある。1914(大正3)年、大阪で行われた陸軍特別大演習で、大正天皇が観覧した場所を「御野立所」と呼んだ。演習を報じる大阪毎日新聞には、何度も出てくる。我ながら、よく気が付いたもんだと、自分で自分を褒める。

その場所が、星田交差点の手前の道を西に入った所だ。駐蹕記念碑と全く同じしつらえの「大正天皇行幸記念碑」。こちらはフェンスで囲われ、扉にカギが掛かっていて、近付くことはできない。

陸軍特別大演習は1892(明治25)年~1936(昭和11)年の間、年1回行われ、天皇が審判長を務め、南北(東西)両軍に分かれて模擬戦を繰り広げた。司令官は「坂の上の雲」の主人公の1人で「日本騎兵の父」と呼ばれた秋山好古や、満州事変時の関東軍司令官・本庄繁、2・26事件の重要登場人物である荒木貞夫や香椎浩平らが務めている。

府立狭山池博物館の学芸員、西川寿勝さんは「数万人の兵士による、現在では考えられない“戦争ごっこ”。市街地や田畑を踏み荒らして行われた」という。偵察のため民家の屋根に上って瓦が落ちたとか、乱戦で墓石が倒れたなどの苦情もあったそうだ。東高野街道も行軍路となった。

演習2日目は河内平野が舞台で、星田村(交野市)から茄子作(なすづくり)(枚方市)一帯で両軍が展開した。第一御野立所となったのが当時畑だった行幸記念碑の場所なのだ。「御野立所の光栄者」の見出しの記事で、所有者は「あまりのもったいなさとうれしさに思わず涙が出ました」と語っている。第二御野立所となったのが茄子作の畑地。それが駐蹕記念碑の場所で、こちらも所有者は旧家だ。

 行幸記念碑は1928(昭和3)年11月建立。どちらも同じ時に建てられたと思われる。大正天皇逝去が26年12月25日で、年が明けた27(昭和2)年2月に大喪儀が行われた。翌28年6月には満州事変が起き、治安維持法ができるなど、戦争への道を一直線に突き進んでいる最中だ。11月には昭和天皇の即位の礼があった。御野立所の碑は、大正天皇を悼み、昭和天皇の即位に合わせて建てられたのではなかろうか。

 このころは、天皇が来られるというのはとんでもなく光栄なことだった。西川さんによると、新天皇にも大阪に来てもらおうと大演習を誘致し、32(昭和7)年に大阪で大演習が行われた。【松井宏員】=次回は8月3日掲載<イラストマップ・高宮信一さん>

 

 大演習の舞台となった星田北地域の田畑はコロナ禍と期を同じくして埋め立てられ開発が急ピッチで進められている。来年の今頃はすっかり景色が変わっているだろう。時の流れを強く感じている昨今である。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする