昨年の秋以降親戚関係の訃報が続いている。妻の実家の義兄(84歳)が10月に。11月には私より4歳若い従兄妹(父の妹の長男)、そして今年に入って1月には浜島の父の実家を守っていた叔父(90歳)が亡くなった。そして今日、19日(金)に神戸に住んでいる叔父が亡くなり家族葬を済ませたと従兄妹から連絡が入った。正月明けに電話を入れてコロナが収まったら遊びに行く約束をしていただけに呆然とした。
叔父の名前は大法(昭和8年生)。中学生の頃、相撲で大鵬が一時代を築いた時、叔父さんの名前とかぶりすごい名前をつけたもんだと感心した。大法さんとは他の叔父叔母よりも関わりが深く思い出も多い。
私の記憶の中に残っている一番古いものは5歳前後の時かな?4歳下の弟が尻に肉腫ができて伊勢の日赤で緊急に大手術をした時、両親は大慌てであったと思う。私は状況もわからず一人置いてけぼりみたいになっていた。その時、自転車に乗った大法さんがニコニコとやってきて「何も心配することはないよ」と言って、私を後ろに乗せて祖母の家に連れて行ってくれた。幼い私はその人がどこの誰なのかわからなかったのだが、安心できる人と直感できる優しさが満ちていた。
なれそめを聞いたことはないが、大法さんと叔母の英子さんは高校の頃からお付き合いがあって大学時代は英子さんの家に入り浸っていた。私が小学4年か5年ぐらいの時、なぜそうなったのかは定かではないが、伊勢の英子さんの家で大法さんを交えてパーティーらしきものがあるので私が鵜方から一人で大法さんの大好物を持っていくことを母から命じられた。初めてのお使い気分だった。英子さんの家に着いた時はホッとした。華やかな雰囲気が別世界のようだった。母からのおみやげを渡していただいたお菓子を食べていたら、台所から悲鳴が聞こえてきた。駆けつけた英子さんのお母さんや妹さんも加わって大パニック。私が持参したのは数匹の「海鼠」。私なんかは見慣れたものだがグロテスクな塊を見た英子さんたちは卒倒状態。私は何か悪いことをしたみたいな気分になって落ち込んだ。すると大法さんがニコニコしながら「どれどれ」と言って立ちあがり見事にスライスした。結局海鼠を食べたのは大法さんと私だけだった。小学生の私が海鼠を食べることが珍しいのか「スゴイスゴイ」とほめられ面映ゆかった。
私が中、高校生の頃、大法さん一家は夏休みに御座の白浜で海水浴を楽しむのが定番だった。白浜には父方の祖母の妹さんが経営しているみさき荘という旅館があり必ずそこに泊まった。私も時々一緒に泳ぎに行ったものだ。その時、大法さんのお土産は京都の老舗の”蕎麦ぼうろ”と決まっていた。今と違って流通の発達していない時代、田舎暮らしの私にとって年に一回の”蕎麦ぼうろ”は格別の味だった。いまだに”蕎麦ぼうろ”は格別のお菓子になっている。
一浪して大学に入学した1970(昭和45)年、大阪万博があった。その頃大法さんは枚方市の香里園に住んでいた。そこで母と弟と私は大法さんの家に泊めてもらって万博を見に行った。枚方市から京阪バスで南茨木まで行ってモノレールに乗り換えて会場に入ったと思う。人の多さに圧倒され主要な展示館には入らなかったと思う。帰り際、もう一度太陽の塔を見ておこうと母と振り返ったら弟が人の波にのまれて迷子になってしまい場内アナウンスをしてもらったりして大騒ぎしたのも良き思い出。
大学を卒業して枚方市の中学校に決まったのが3月の中頃、大慌てで名古屋の下宿の荷物をまとめ大法さんの家に転がり込んだ。生活が落ち着くまで1ヶ月余りお世話になった。私も3年生担当だったが、丁度大法さんの長女も二中の3年生。当時の枚方市は高校受験で地元集中運動というのが盛んで私も従兄妹も巻き込まれ大変だった。家族会議で議論を交わしたことも懐かしい。
結婚して女の子が生まれた時、家にお祝いに来てくれた.。関西医大の整形外科医だった大法さん、真っ先に股関節の動きを触診した。何をしているのか?と面食らっていた私に、首をかしげながら「一度レントゲンを撮ったほうがいい」と言った。このままだと股関節脱臼になる可能性があるとのこと。大法さんの診療時間に合わせて滝井にある関西医大で正式に診てもらった。予防策として半年ぐらいベルトで開脚状態を保つ治療をした。大変だったがおかげで股関節脱臼にならずに済んだ。親戚で唯一の医師である大法さんには親戚のものはすべて頼った。どんな時でも誠実に耳を傾けてくれて的確な説明をしてくれた。ここから得られる安心感は得難いものがあった。
長女も長男も0歳児クラスから保育所に入所した。 熱が出て保育所で見てもらえないが、仕事の関係で二人とも都合がつかない時、最後の頼みの綱は大法さんの家であった。叔母の英子さんが快く引き受けてくれて助かったことは数えきれない。病児保育の種がまかれやっと芽をだしてきた時代である。共働き家庭を巡る環境は厳しいものがあった。
3人目の子が生まれた昭和58年、大法さんは愛媛大学医学部で勤めることになり3月に松山へ引っ越した。子供が病気の時の切り札が無くなることには不安があった。しかし、もしそのまま大法さんが香里園に住んでいたら、その年村野中から二中への転勤が決まった私は大法さんの末っ子(香里小)の入学を迎えることになったのである。「従兄妹との遭遇」は私にとってはかなりのプレッシャーである。不安と安堵が錯綜した春だった。
松山は遠いので今までのような日常的な交流はなく、冠婚葬祭でのお付き合いになった。今は四国も橋でつながり高速道路が整備されたので便利になったが、当時は琴平の近くの妻の実家へ行くのさえフェリーを使って大仕事だった。松山となると高松から見ると地の果てという感じだった。
45年ほど住み慣れた松山の家を処分して、六甲アイランドにある甲南介護老人保健施設に引っ越したのが5年ほど前、1つの終活のあり方を教えてもらったような思いがした。私の家から車でも電車でも1時間足らずで行くことができるのでまた身近な存在となり嬉しかった。毎年11月に六甲アイランド内を走る六甲シティマラソン(10km)が開催されていた。大法さんの所から歩いて5分ぐらいの六甲アイランド高校が集合場所なので更衣をさせてもらい走り終わってからスーパー銭湯へ出向き食事をするという楽しみができた。新型コロナウイルスの感染拡大で去年は中止になり、気軽に訪れることすらままならず歯がゆかった。
今年の年賀状にはこう書かれていた。『数え年で89歳を迎えました。コロナ回避を徹底的に心がけた結果、脚、腰が弱り、ノルディック杖2本を持っての4点歩行をしております。 ワクチンに期待して今年はフレイルから脱却できればと思います。…』
コロナ禍による生活リズムの激変が大法さんの命を縮めたと思う。もう一度、酒を飲みながら思い出話をしたかったと心残りがある。「コロナ憎し!」である。
伊勢市のやすらぎ霊園に柴田家の墓はある。納骨の時にしっかりお別れをしたいと思っている。『弔いは、残された者のためにある。』小説「とむらい屋颯太」の一節がまた頭をよぎった。
叔父の名前は大法(昭和8年生)。中学生の頃、相撲で大鵬が一時代を築いた時、叔父さんの名前とかぶりすごい名前をつけたもんだと感心した。大法さんとは他の叔父叔母よりも関わりが深く思い出も多い。
私の記憶の中に残っている一番古いものは5歳前後の時かな?4歳下の弟が尻に肉腫ができて伊勢の日赤で緊急に大手術をした時、両親は大慌てであったと思う。私は状況もわからず一人置いてけぼりみたいになっていた。その時、自転車に乗った大法さんがニコニコとやってきて「何も心配することはないよ」と言って、私を後ろに乗せて祖母の家に連れて行ってくれた。幼い私はその人がどこの誰なのかわからなかったのだが、安心できる人と直感できる優しさが満ちていた。
なれそめを聞いたことはないが、大法さんと叔母の英子さんは高校の頃からお付き合いがあって大学時代は英子さんの家に入り浸っていた。私が小学4年か5年ぐらいの時、なぜそうなったのかは定かではないが、伊勢の英子さんの家で大法さんを交えてパーティーらしきものがあるので私が鵜方から一人で大法さんの大好物を持っていくことを母から命じられた。初めてのお使い気分だった。英子さんの家に着いた時はホッとした。華やかな雰囲気が別世界のようだった。母からのおみやげを渡していただいたお菓子を食べていたら、台所から悲鳴が聞こえてきた。駆けつけた英子さんのお母さんや妹さんも加わって大パニック。私が持参したのは数匹の「海鼠」。私なんかは見慣れたものだがグロテスクな塊を見た英子さんたちは卒倒状態。私は何か悪いことをしたみたいな気分になって落ち込んだ。すると大法さんがニコニコしながら「どれどれ」と言って立ちあがり見事にスライスした。結局海鼠を食べたのは大法さんと私だけだった。小学生の私が海鼠を食べることが珍しいのか「スゴイスゴイ」とほめられ面映ゆかった。
私が中、高校生の頃、大法さん一家は夏休みに御座の白浜で海水浴を楽しむのが定番だった。白浜には父方の祖母の妹さんが経営しているみさき荘という旅館があり必ずそこに泊まった。私も時々一緒に泳ぎに行ったものだ。その時、大法さんのお土産は京都の老舗の”蕎麦ぼうろ”と決まっていた。今と違って流通の発達していない時代、田舎暮らしの私にとって年に一回の”蕎麦ぼうろ”は格別の味だった。いまだに”蕎麦ぼうろ”は格別のお菓子になっている。
一浪して大学に入学した1970(昭和45)年、大阪万博があった。その頃大法さんは枚方市の香里園に住んでいた。そこで母と弟と私は大法さんの家に泊めてもらって万博を見に行った。枚方市から京阪バスで南茨木まで行ってモノレールに乗り換えて会場に入ったと思う。人の多さに圧倒され主要な展示館には入らなかったと思う。帰り際、もう一度太陽の塔を見ておこうと母と振り返ったら弟が人の波にのまれて迷子になってしまい場内アナウンスをしてもらったりして大騒ぎしたのも良き思い出。
大学を卒業して枚方市の中学校に決まったのが3月の中頃、大慌てで名古屋の下宿の荷物をまとめ大法さんの家に転がり込んだ。生活が落ち着くまで1ヶ月余りお世話になった。私も3年生担当だったが、丁度大法さんの長女も二中の3年生。当時の枚方市は高校受験で地元集中運動というのが盛んで私も従兄妹も巻き込まれ大変だった。家族会議で議論を交わしたことも懐かしい。
結婚して女の子が生まれた時、家にお祝いに来てくれた.。関西医大の整形外科医だった大法さん、真っ先に股関節の動きを触診した。何をしているのか?と面食らっていた私に、首をかしげながら「一度レントゲンを撮ったほうがいい」と言った。このままだと股関節脱臼になる可能性があるとのこと。大法さんの診療時間に合わせて滝井にある関西医大で正式に診てもらった。予防策として半年ぐらいベルトで開脚状態を保つ治療をした。大変だったがおかげで股関節脱臼にならずに済んだ。親戚で唯一の医師である大法さんには親戚のものはすべて頼った。どんな時でも誠実に耳を傾けてくれて的確な説明をしてくれた。ここから得られる安心感は得難いものがあった。
長女も長男も0歳児クラスから保育所に入所した。 熱が出て保育所で見てもらえないが、仕事の関係で二人とも都合がつかない時、最後の頼みの綱は大法さんの家であった。叔母の英子さんが快く引き受けてくれて助かったことは数えきれない。病児保育の種がまかれやっと芽をだしてきた時代である。共働き家庭を巡る環境は厳しいものがあった。
3人目の子が生まれた昭和58年、大法さんは愛媛大学医学部で勤めることになり3月に松山へ引っ越した。子供が病気の時の切り札が無くなることには不安があった。しかし、もしそのまま大法さんが香里園に住んでいたら、その年村野中から二中への転勤が決まった私は大法さんの末っ子(香里小)の入学を迎えることになったのである。「従兄妹との遭遇」は私にとってはかなりのプレッシャーである。不安と安堵が錯綜した春だった。
松山は遠いので今までのような日常的な交流はなく、冠婚葬祭でのお付き合いになった。今は四国も橋でつながり高速道路が整備されたので便利になったが、当時は琴平の近くの妻の実家へ行くのさえフェリーを使って大仕事だった。松山となると高松から見ると地の果てという感じだった。
45年ほど住み慣れた松山の家を処分して、六甲アイランドにある甲南介護老人保健施設に引っ越したのが5年ほど前、1つの終活のあり方を教えてもらったような思いがした。私の家から車でも電車でも1時間足らずで行くことができるのでまた身近な存在となり嬉しかった。毎年11月に六甲アイランド内を走る六甲シティマラソン(10km)が開催されていた。大法さんの所から歩いて5分ぐらいの六甲アイランド高校が集合場所なので更衣をさせてもらい走り終わってからスーパー銭湯へ出向き食事をするという楽しみができた。新型コロナウイルスの感染拡大で去年は中止になり、気軽に訪れることすらままならず歯がゆかった。
今年の年賀状にはこう書かれていた。『数え年で89歳を迎えました。コロナ回避を徹底的に心がけた結果、脚、腰が弱り、ノルディック杖2本を持っての4点歩行をしております。 ワクチンに期待して今年はフレイルから脱却できればと思います。…』
コロナ禍による生活リズムの激変が大法さんの命を縮めたと思う。もう一度、酒を飲みながら思い出話をしたかったと心残りがある。「コロナ憎し!」である。
伊勢市のやすらぎ霊園に柴田家の墓はある。納骨の時にしっかりお別れをしたいと思っている。『弔いは、残された者のためにある。』小説「とむらい屋颯太」の一節がまた頭をよぎった。