日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

第68世日如上人猊下御指南

2007-11-11 | 日如上人御指南

 

平成十九年十一月度 広布唱題会の砌


(大日蓮 平成19年12月号 第742号 転載)

 本日は、総本山の十一月度の広布唱題会に当たり、支部総登山の方々を含め、皆様には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。
 本年もいよいよ残り二月(ふたつき)となりましたが、皆様方には、明年、全国四ヵ所で行われる「推進決起大会」ならびに御命題の「地涌倍増」と「七万五千の大結集」へ向けて日夜、御精進のことと存じます。
 既に御承知のこととは存じますが、明年行われます推進決起大会は、平成二十一年の御命題、地涌倍増と七万五千の大結集の達成へ向けてさらに一段と気運を高め、これを機にすべての法華講各支部が折伏と大結集に勢いと弾みをつけ、僧俗一致、異体同心、一致団結して御命題を達成するよう、「プレ大会」として開催するものであります。
 既に、会場別に僧俗が一体となっての運営委員会も設置され、また各部門ごとの態勢も整いつつあり、万全の準備に入っております。
 これには私も出席させていただきますが、御隠尊日顕上人猊下にも御臨席を賜り、是非ともその様子を御高覧いただきたいと存じております。
 さて、『唱法華題目抄』を拝しますると、
「仏在世には仏法華経を秘し給ひしかば、四十余年の間は等覚・不退の菩薩、名をしらず。其の上寿量品は法華経八箇年の内にも名を秘し給ひて最後にきかしめ給ひき。末代の凡夫には左右なく如何がきかしむべきとおぼゆる処を、妙楽大師釈して云はく『仏世は当機の故に簡ぶ、末代は結縁の故に聞かしむ』と釈し給へり。文の心は仏在世には仏一期の間、多くの人不退の位にのぼりぬべき故に法華経の名義を出だして謗ぜしめず、機をこしらへて之を説く。仏滅後には当機の衆は少なく結縁の衆多きが故に、多分に就いて左右なく法華経を説くべしと云ふ文なり。是体の多くの品あり。又末代の師は多くは機を知らず。機を知らざらんには強ひて但実教を説くべきか。されば天台大師の釈に云はく『等しく是見ざらんは、但大を説くに咎無し』文。文の心は機をも知らざれば大を説くに失なしと云ふ文なり」(御書 二三一㌻)
とあります。
 この御文は、摂受・折伏について、在世と滅後との相違ならびに末法は折伏に限る旨を述べられているところでありますが、拝読した御文が少々長文にわたりますので、解説的に申し上げますと、
「仏の在世において、爾前権教が説かれた四十余年の間は法華経の名を秘していたので、等覚の菩薩でさえもその名を知らなかった。その上、寿量品は法華経が説かれた八ヵ年の間でも名を秘して、最後、本門に入ってからでなければ説かれなかった。したがって滅後末法の凡夫にどのようにして法華経を聞かせることができようかと考えていたところ、妙楽大師は『法華文句記』に『仏世は当機の故に簡ぶ、末代は結縁の故に聞かしむ』と解釈されている。この文の意味は、仏の在世には仏の一期の間に説法を聞いて悟りを開き、不退の位に登る人が多いから、初めから法華経を説いて謗法を犯させるようなことはせず、相手の機根を調えてから法華経を説くが、仏の滅後においては、当座に悟りを開く人は少なく、仏の説法を聞いても、時機未熟のためにその場では得道せず、未来に悟りを得る衆生が多いのであるから、とにかく、直ちに法華経を説くべきである。また、末代の師は、多くは機根について知らない。機根が見分けられない場合は、強いて実教を説くべきである。天台大師も『法華文句』に『機類が見分けられないとしたら、ただ大乗、すなわち今日においては妙法五字、この大乗を説けば聞違いはない』と釈されている」
と仰せられているのであります。
 つまり、末法という時代は、衆生の機根が本未有善であるが故に、「毒鼓の縁」という言葉がありますように、とにかく強いて法を説き、折伏をしていくことが最も大事なのであります。
 故に、同じ『唱法華題目抄』には、
「末代には善無き者は多く善有る者は少なし。故に悪道に堕せん事疑ひ無し。同じくは法華経を強ひて説き聞かせて毒鼓の縁と成すべきか。然れば法華経を説いて謗縁を結ぶべき時節なる事諍ひ無き者をや」(同㌻)
と仰せであります。
 この御文のなかで、末法は「謗縁を結ぶべき時節」であると仰せでありますが、この「謗縁」とは「逆縁」「毒鼓の縁」と同じ意味であり、誹謗することによって縁を結ぶことであります。
 つまり、法華経をいったんは誹謗しても、その縁により、ついには法華経によって成仏することができるということであります。
 したがって、末法において本未有善の衆生を相手に折伏をするときは、相手の機根がどうであれ、強いて大聖人の仏法を説き、下種結縁せしめていくことが大事なのであります。ここに末法は折伏をもって正規とする所以が存するのであります。
 そもそも、仏法におきましては「時」ということをまことに大事にいたします。『撰時抄』には、末法において法を説くに当たっては、相手の機根に応じるのではなく、末法という時を知り、時を鑑み、時に応じて法を説くこと、つまり折伏することが大事であると仰せであります。
 すなわち、機根に随って上根・上智の人のために大法を説くべきであるというのであれば、なぜ釈尊は御自身にとって大事な初成道の時に法華経を説かなかったのか。また、有縁の人のために大法を説くというのであれば、なぜ釈尊は大恩ある父母のために観仏三昧経、摩耶経を説いて法華経を説かなかったのか。それは、いまだ時が至らなかったが故である等々と仰せられ、
「されば機に随って法を説くと申すは大なる僻見なり」(同八四六㌻)
と仰せられているのであります。
 かく考えますると、今日、地涌倍増と大結集の御命題をいただいている今この時こそ、我々にとってはまさしく広布への大事な闘いの時であり、真の仏国土実現のためにも、また自身の成仏のためにも、一人ひとりが御命題達成を目指して、全魂を傾け、折伏逆化の闘いをしていかなければならない大事な時であることを知らなければなりません。
 仮りにも、今がいかなる時であるかをも解らず、御命題達成の闘いにも参加せず、いたずらに今この大事な時を無為に過ごして、悔いを万代に残すようなことがあってはならないと思います。
 また、時という意味から言えば、今月は第三祖日目上人御遷化の月であります。
 一天広布に御命をかけて、元弘三(一三三三)年、御老齢をも顧みず天奏のため旅立たれ、途次、美濃垂井の宿において御遷化あそばされた日目上人の身軽法重、死身弘法のお振る舞いを拝するとき、我々本宗僧俗は、この日目上人の尊い御行跡を心肝に染めて、けっして忘れてはなりません。
 どうぞ皆様には、この意義深い十一月を悔いなく闘いきり、遠くは一天四海本因妙広宣流布を目指し、近くは明年の決起大会ならびに明後年の地涌倍増と七万五千の大結集、さらに総登山の完遂を目指して、いよいよ御精進くださることを心からお祈り申し上げ、本日の挨拶といたします。

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