本門戒壇の大御本尊へのお目通りを拒否しておいて、そのお写しである家庭の御本尊だけを拝んでも功徳など絶対にありません。
『寿量品』に「心に恋慕を懐き、仏を渇仰する」(開結 五〇一頁)とあるように、私たちにとって仏を恋慕渇仰する信心が大切なのです。九十歳の阿仏房が決死の覚悟で登山したのも、日妙尼が苦労をしながら大聖人のもとへ参詣したのも、すべて御本仏大聖人を恋慕渇仰する信心によるものです。
現時(平成六年)において、日蓮大聖人は人法一箇の大御本尊として、大石寺正本堂(※平成十四年以降、奉安堂)にいらっしゃるのです。
日寛上人は『寿量品談義』に「志有らん人は登山して拝したまへ」(富要 一〇-一三一頁)と仰せられ、信心があるならば、登山して大御本尊にお目通りせよと教示されています。
かつて学会でも、小樽問答で邪宗日蓮宗に対し「『かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき』と。霊山浄土は大聖人の御本懐である本門戒壇の大御本尊のおわす富士大石寺こそ本当の霊山浄土でなくて、どこに霊山浄土がありましょうか」(小樽問答誌 七九頁)と破折したではありませんか。
これらのことを思えば、現在の創価学会が会員に対して、大聖人即大御本尊へのお目通りをしないよう指導していることは実に罪深い悪業というべきです。