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日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

15 現在、創価学会では「総本山へ参詣しなくてもよい」と指導していますが、戒壇の大御本尊へのお目通りを拒否して、家庭の御本尊を拝むだけで功徳はありますか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 本門戒壇の大御本尊へのお目通りを拒否しておいて、そのお写しである家庭の御本尊だけを拝んでも功徳など絶対にありません。

『寿量品』に「心に恋慕を懐き、仏を渇仰する」(開結 五〇一頁)とあるように、私たちにとって仏を恋慕渇仰する信心が大切なのです。九十歳の阿仏房が決死の覚悟で登山したのも、日妙尼が苦労をしながら大聖人のもとへ参詣したのも、すべて御本仏大聖人を恋慕渇仰する信心によるものです。
 現時(平成六年)において、日蓮大聖人は人法一箇の大御本尊として、大石寺正本堂(※平成十四年以降、奉安堂)にいらっしゃるのです。
日寛上人は『寿量品談義』に「志有らん人は登山して拝したまへ」(富要 一〇-一三一頁)と仰せられ、信心があるならば、登山して大御本尊にお目通りせよと教示されています。
 かつて学会でも、小樽問答で邪宗日蓮宗に対し「『かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき』と。霊山浄土は大聖人の御本懐である本門戒壇の大御本尊のおわす富士大石寺こそ本当の霊山浄土でなくて、どこに霊山浄土がありましょうか」(小樽問答誌 七九頁)と破折したではありませんか。
 これらのことを思えば、現在の創価学会が会員に対して、大聖人即大御本尊へのお目通りをしないよう指導していることは実に罪深い悪業というべきです。

 


16 日蓮正宗において、戒壇の大御本尊を離れた「御本尊根本」という考えは成り立ちますか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 本門戒壇の大御本尊を離れては、日蓮正宗の信仰そのものが成り立ちません。
 なぜなら、日蓮正宗における信仰の対境は本門戒壇の大御本尊に限られるからです。
 したがって、大聖人の仏法において、大御本尊から離れて「御本尊根本」の信仰をするなどはありえないことであり、このような主張は、各人に下付された御本尊が本門戒壇の大御本尊の御内証を書写されたものであることを知らない人の言葉にすぎません。
 ここにわかりやすい譬えがありますので、紹介しましょう。
「電灯にたとえて考えてみると、ヒューズがとんで電流が流れてこない電灯は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光りを発しないようなもので、電球は本物であっても、電流が流れてこなければ光りが出ないのである。(中略)したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である」
 これは、ご存じ、創価学会で発行した『折伏教典』(三三九頁)の一文です。
 大聖人が『聖人御難事』に「余は二十七年なり」(全集 一一八九頁)と仰せられた、出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を離れることは、御本仏日蓮大聖人から離れ、下種三宝のすべてを否定する大謗法なのです。
 まして、今日の創価学会では、電球(本尊)までニセ物を作ってしまったのですから、そのニセ物には、光(功徳)の出ることなど絶対にありえません。

 


17 〃世間でも太陽を崇める宗教や富士山を敬う宗教がいくつもあるように、日蓮正宗を離れても本門戒壇の御本尊を根本として信仰することは少しもおかしいことではない〃という考えは正しいのでしょうか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 日蓮正宗を離れては広宣流布も一生成仏もありません。
 日蓮正宗は大聖人の教えを今日まで正しく継承し、実践するただ一つの教団であり、大聖人の教えを守るとともに、これを生活の中に展開して、実際に一切衆生の救済に努めてきました。
 その根源はなんといっても、本門戒壇の大御本尊を法義・信仰の中心としてきたからにほかなりません。
 この戒壇の大御本尊は富士大石寺に御安置されており、この大御本尊の極意は大石寺代々の御法主上人に伝えられています。
 したがって戒壇の大御本尊と血脈相承の具わった日蓮正宗の信仰によって、はじめて成仏を遂げることができるのです。
 大石寺を離れ、日蓮正宗から離れて、いかに「御本尊根本」などといっても、決して大聖人の御精神にかなうものではありません。

 


18 「御本尊根本」であるならば、正しい信仰といえるのでしょうか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 真実の「御本尊根本」とは、宗祖日蓮大聖人の教義を正しく守り、血脈付法の御法主上人の御指南のもとに、本門戒壇の大御本尊を唯一無二に信ずることです。
 しかし現在の創価学会でいう「御本尊根本」とは、御歴代上人に伝わる血脈相承を否定するためにいい出した言葉なのです。
 かつて創価学会は『折伏教典』に「富士大石寺にそむく謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがない」(同書 三四〇頁)と解説し、たとえ日蓮大聖人の御真筆漫荼羅であっても富士大石寺の血脈から離れたものには大聖人の心は宿らないといっていました。
 ところが現在は「もはや御本尊はどれも同じ」といい、富士大石寺の本門戒壇の大御本尊を軽視する邪説を唱えています。
 「御本尊根本」というと聞こえはよいのですが、この言葉を使用する創価学会の意図は実に邪悪なものなのです。

 


19 なぜ学会で授与する本尊が「ニセ本尊」なのですか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 たとえば、精巧なカラーコピーの機械で、紙幣をコピーして「お札」を作製するとします。いかに本物の「お札」と見分けがつかなくても、そのコピー札は「ニセ札」であり、それを使えば法的に罰せられます。
 なぜかといえば、
 ①正式な政府の許可がなく、
 ②日本銀行から発行されたものでなく、
 ③自分で勝手に作ったものだからです。
 「ニセ本尊」はこれと全く同じ道理です。
 ①御法主上人の許可を受けず、
 ②総本山から下付されたものではなく、
 ③学会が勝手に作製したものだからです。
 学会では「自分たちが和合僧団だから、その資格がある」と主張しますが、一体その資格は、どなたから受けたのでしょうか。御歴代上人の中で、創価学会に相承された方などおられません。もし「広布を願う一念があれば資格が具わる」などというのならば、誰でもいつでも勝手に本尊を作ることができることになり、大聖人の仏法は混乱し、滅亡してしまうでしょう。
 ニセ札は法律で罰せられますが、「ニセ本尊」は仏法破壊の大罪として、必ず現罰をこうむるのです。

 


20 総本山第二十六世日寛上人の御本尊を「ニセ本尊」と呼ぶのは日寛上人に対する冒涜ではありませんか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 宗門では、浄圓寺所蔵の本證坊個人に下付された日寛上人御書写の真正の御本尊を「ニセ本尊」といっているのではありません。
 御法主上人の許可なく、勝手に複製されたものを、私たちは「ニセ本尊」と呼んでいるのです。
 そのうえ、創価学会は日寛上人の御本尊にしたためられていた「授与書き」を勝手に削り、会員に販売しているのですから、学会が日寛上人のお心に背き、日寛上人のお徳を汚す大罪を犯しているのは明白です。
 これこそまさに、日寛上人に対する冒涜以外の何ものでもありません。

 


21 日寛上人の御本尊を複写したものを、なぜ宗門では「日寛上人の本尊ではない」「日寛上人のお心にそむく大謗法」というのですか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 宗門でいう「日寛上人の御本尊」とは、「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ」(全集 一一二四頁)と仰せの、大聖人の「たましい」が、血脈相承のうえから、正しく写されている御本尊のことです。
 しかし、今回学会が勝手に複写して作ったものは、姿・形は日寛上人の御真筆とそっくりであっても、血脈付法の御法主上人の許可がないので、大聖人の「たましい」が写されておらず、「日寛上人の御本尊」とはいえないしろものです。
 たとえば自分で勝手に御本尊を写真に撮って、それを拝むのと全く同じことであり、大謗法なのです。
 また、学会では日寛上人の御真筆御本尊にしたためられていた「大行阿闍梨本證坊日證」という授与書きを勝手に抹消し、変造しており、これが「日寛上人のお心にそむく大謗法」になるのは当然です。

 


22 学会では「宗門が御本尊を下付してくれないので、やむをえず複写して授与することになった」といっていますが、本当ですか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 この問いでは「なぜ宗門が下付しないのか」を知ることが大切でしょう。
 日蓮正宗は、大聖人、日興上人以来の化儀・化法を守り、正しく信仰する人々に対しては、いかなる人であっても御本尊を下付してきました。
 これは創価学会に対しても同様です。
 ところが学会は、次第に正宗信徒の道から外れ、宗門からのたび重なる教導に対しても、それを受け入れないのみならず、仏法僧の三宝を破壊する大謗法団体と化してしまったのです。
 換言すれば、本宗の信徒団体としての資格を自ら放棄してしまったのですから、団体破門となり、そのために会員に対する御本尊下付もされなくなったのです。
 一時は広宣流布を目指すように見えた学会でしたが、その本性は日蓮正宗信徒とはかけ離れた、御法主上人誹謗、三宝破壊を平気で行なう池田教だったのですから、御本尊下付の停止は当然の処置です。

 


23 拝む人に「信力」「行力」があれば、複写本尊でも「仏力」「法力」を発現する、という主張は正しいのですか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 これは、本末転倒であり増上慢の考えです。

 仏力・法力・信力・行力は四力といいます。その関係について、日寛上人は『観心本尊抄文段』に「当に知るべし、蓮華は水によって生じ、我等が信力・行力は必ず法力によって生ずるなり。若し水なくんば則ち蓮華生ぜず、若し法力なくんば何んぞ信行を生ぜん(中略)我等、法力により信力・行力を生ずと雖も、若し仏力を得ざれば信行退転さらに疑うべからず」(富要 四-二四八頁)と仰せです。
  もともと日蓮大聖人の御当体たる御本尊には仏力と法力が具わっており、この御本尊に対して信じ(信力)、唱題を行ずる(行力)ときに四力が合して成仏がかなうのです。「仏力」も「法力」もない複写の「ニセ本尊」に向かって、凡夫がいかに信力・行力を発動しようとも、真実の境智冥合などありえません。
  迷いの衆生である凡夫の信力・行力によって、御本尊に仏力・法力が具わり、本当の本尊になるなどという論は、因果を無視した外道の考えであり、また「我、仏に勝れたり」とする増上慢の極みです。

 


24 「ニセ本尊」を拝むとどうなるのですか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 「ニセ本尊」には、仏法に敵対する魔の力があり、これを拝むと魔の通力によって現罰を受け、その謗法の罪によって永く地獄に堕ちる結果となります。
 大聖人の仏法において「似て非なるもの」を用いるということは、大謗法です。
 その理由は、仏に似ているがゆえに、正しい教えが隠され、多くの人々が真実の仏を見失ってしまうからです。
 大聖人は、真言宗が天台の一念三千を盗み入れて「大日経第一」と立てたことに対して「真言亡国」と破折されていますが、今回創価学会が作製した「ニセ本尊」は、日蓮正宗の御本尊を盗み取り、日寛上人の御本尊に姿・形を似せているだけに、その罪もまた大きいのです。
 第二代戸田会長は、御本尊について「ただ、大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。だからコワイ」(大白蓮華 九八―九頁)と指導しています。

 


25 「『ニセ本尊』に功徳がない」ということは、学会員が拝んでいる従来の御本尊には功徳があるということですか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 三宝を誹謗する謗法団体となった創価学会に所属している人は、従来の御本尊でも功徳は積めません。
 「『ニセ本尊』に功徳はない」というのは、その本尊自体が、最初から大御本尊の血脈が通じておらず、仏力・法力が具わっていないからです。
 従来の御本尊は正しい血脈のもとにまさしく仏力・法力が具わっており、御法主上人の御指南に従って正しく信仰をすれば、功徳があることはいうまでもありません。
 しかし、従来の御本尊であっても、拝む人が血脈付法の御法主上人を誹謗するならば、四力(仏力・法力・信力・行力)が合せず、功徳はありません。まして何よりも「ニセ本尊」を作るほどの謗法団体になった学会に所属していては、絶対に功徳はありません。かえって、拝むほどに罪業を積み重ねることになります。さらには今までの信心による一切の功徳が消えてしまうことを恐れるべきです。
 「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(全集 一三三八頁)とは、このことです。

 


26 日蓮正宗の「信仰」とは何ですか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 総本山大石寺にまします、本門戒壇の大御本尊を根本とし、唯授一人の血脈に従い、本門の題目を自行化他にわたって行じることです。

 信仰とは、絶対的なものを「信じ仰ぐ」ことです。「何」を対象として信ずるかによって正邪が決まりますが、仏法では三宝を対象とします。
 日蓮正宗の法義では「文底下種の三宝」といって、
  仏宝―日蓮大聖人
  法宝―本門戒壇の大御本尊
  僧宝―日興上人を随一とする御歴代上人
と立てます。
 その当体への「信仰」については、『当流行事抄』に、「我等唱え奉る所の本門の題目其の体何物ぞや、謂わく、本門の大本尊是れなり、本門の大本尊其の体何物ぞや、謂わく、蓮祖大聖人是れなり」(聖典 九五四頁)と、人法一箇の御本尊を信じ、本門の題目を唱えることと明示されています。
 唯授一人血脈相承の御法主上人の御指南に従い、大聖人出世の御本懐である本門戒壇の大御本尊を、信じ行ずることが日蓮正宗の「信仰」なのです。

 


27 「広宣流布」の本当の意味は何ですか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 総本山第二十六世日寛上人は『文底秘沈抄』に「富士山は是れ広宣流布の根源の故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり」(聖典 八五五頁)と仰せです。

 すなわち、全世界の人々が総本山にまします本門戒壇の大御本尊に帰依して、本門の題目を唱えることを「広宣流布」といいます。
 『諸法実相抄』に「剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(全集 一三六〇頁)と仰せられ、『如説修行抄』には、広宣流布のときには、自然界も、社会も、そして個人も、平和で安穏な世界になると説かれております。
 日蓮正宗の仏法を「広宣流布」することが大聖人の御遺命なのです。現在の創価学会のような、本尊と血脈に迷う人々がどれほど増えても、大聖人の御正意の「広宣流布」ではありません。
 日達上人も「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります」(達全 二-六-二九五頁)と明確に仰せられています。

 


28 「令法久住」と「広宣流布」とはどのような関係にあるのですか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 大聖人の仏法を血脈相承によって、末法万年に正しく伝えることが「令法久住」であり、正法が全世界に弘まることを「広宣流布」といいます。
 『報恩抄』には「日蓮が慈悲広大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり」(全集 三二九頁)と仰せです。「令法久住」と「広宣流布」とは「法を正しく久住させる」時間的な縦の流れと、「広く正しく流布せしめる」地域的、現実的な横の流れという、不離の関係にあるといえましょう。
 大地から幹が伸びるすがたを「令法久住」、幹から枝が繁るすがたを「広宣流布」に譬えれば、幹から離れた枝は枯れますが、幹からは再び新しい芽を吹き出します。
  その幹こそ血脈相承ですから、歴代の御法主上人を誹謗する創価学会が、いかに「広宣流布が進んだ」といっても、所詮枯れ枝となるのは明白です。
 本門戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承の「令法久住」があってこそ、万年にわたる一切衆生成仏の「広宣流布」が成就するのです。

 


29 学会では「宗門は法主信仰だ」といっていますが本当ですか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 宗門は「法主信仰」ではありません。

 本宗では、あくまで信仰の対境は本門戒壇の大御本尊であり、これは昔も今もまったく変わりがありません。私たちにとって、御法主上人は御本仏日蓮大聖人の御内証を受け継ぐ正しい師ですから、敬うのは当然です。
 大聖人の仏法は、日興上人ただお一人に付嘱されました。また日興上人より日目上人へ、日目上人より代々の御法主上人へと正しく伝えられ、今日の日蓮正宗があるのです。
 かつて池田大作氏も、「ご存じのとおり、私どもは日蓮大聖人の仏法を奉ずる信徒である。その大聖人の仏法は、(中略)現在は第六十七世御法主であられる日顕上人猊下まで、法灯連綿と血脈相承されている。ゆえに日顕上人猊下の御指南を仰ぐべきなのである」(広布と人生を語る 三-二四九頁)と述べていました。現在の宗門を「法主信仰だ」というならば、池田氏も法主信仰者だったことになります。
 「宗門は法主信仰だ」と創価学会がいい張るのは、本来敬うべき御法主上人を誹謗し、かつ宗門から会員を引き離すためのデッチあげにすぎません。
 それよりも、池田大作氏の意向によって、大聖人が定められた血脈相承を否定し、戒壇の大御本尊をも軽視する創価学会こそ、「池田教」といわれても仕方ありません。