続いて、「書状 富治部左殿宛」(安土桃山時代、本阿弥光悦筆、紙本
墨書、28.2/45.6cm、一幅、TNM所蔵)。
正式な宛名は、加賀藩重臣の富田治部左衛門影政で、藩祖前田利家
に刀剣と父光二からの音信物を届けるために金沢に赴いた光悦が、そ
の取り次ぎを依頼している。あわせて、そのお礼として影政へは帯二
筋を進上する旨が記されている。
天正12~13年(1584〜85)の2月5日に書かれたと推測。光悦27〜28
歳の頃で家業に勤しんでいたことがうかがえる。
この書は光悦と刀剣、加賀藩主前田家との関わりを示し、年代がわ
かる光悦書状の中では最も早い時期のもので、後に光悦流と称される
独特の字体や文字配りが見いだせないことから、光悦書風の変遷を探
る上での貴重な書である。
TNM(台東区上野公園13-9)
墨書、28.2/45.6cm、一幅、TNM所蔵)。
正式な宛名は、加賀藩重臣の富田治部左衛門影政で、藩祖前田利家
に刀剣と父光二からの音信物を届けるために金沢に赴いた光悦が、そ
の取り次ぎを依頼している。あわせて、そのお礼として影政へは帯二
筋を進上する旨が記されている。
天正12~13年(1584〜85)の2月5日に書かれたと推測。光悦27〜28
歳の頃で家業に勤しんでいたことがうかがえる。
この書は光悦と刀剣、加賀藩主前田家との関わりを示し、年代がわ
かる光悦書状の中では最も早い時期のもので、後に光悦流と称される
独特の字体や文字配りが見いだせないことから、光悦書風の変遷を探
る上での貴重な書である。
TNM(台東区上野公園13-9)