とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」(651) 酒井法子 ノ・レ・な・いTeen-age 1987-09-03

2019-09-19 23:48:37 | 日記
酒井法子。早く復帰してほしいです。・・・復帰してますか。

酒井法子 ノ・レ・な・いTeen-age 1987-09-03



酒井 法子(さかい のりこ、1971年2月14日 - )は、日本の女優、歌手。80年代アイドル。サンミュージックプロダクション(1986年 - 2009年夏)を経て、オフィスニグンニイバ(2012年 - )所属。愛称はのりピー。堀越高等学校卒業。


経歴

1986年(昭和61年)にアイドルとしてデビュー後、自らを「のりピー」と名乗っていた。同時に「ヤッピー」「いただきマンモス」「うれピー」といった独特の言葉の「のりピー語」も流行させた。デビュー当時のキャッチフレーズは、「おキャンなレディ」。

生い立ち

1971年(昭和46年)、福岡県福岡市生まれ。その後、埼玉県狭山市の叔母の家で小学校低学年まで育てられ、実父の再婚に伴い福岡へ戻り、福岡市立大名小学校を卒業。父はその後再々婚。福岡市立舞鶴中学校時代にはソフトボール部に所属し、中学校3年生時の1985年夏には、9番右翼手で福岡県大会に出場し、準優勝している。

オーディション

1985年(昭和60年)10月、全国応募総数54,129名のオーディション企画「'86 ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」(主催・資生堂)に出場、グランプリは水谷麻里が受賞したが、酒井には「BOMB!賞」が授与された。本来このコンテストには、このような賞はなく、芸能事務所 サンミュージックの専務が酒井を見初め、「『彼女の』才能を試してみたい」との希望で急遽用意されたものだった[注 2]。こうして、酒井の芸能界デビューは決定した。

同年12月、福岡市から上京した酒井は、サンミュージック社長(当時)・相澤秀禎の自宅での下宿生活を始め、学校も東京都内の中学校に転校。
酒井にとって初めての仕事として、テレビドラマ 『春風一番!』(1986年1月- )への出演が決定、1985年年末からその収録に参加する。同時期に雑誌 『Momoco』に登場し、モモコクラブのNo.1482となる。

アイドルとしてデビュー

1986年(昭和61年)4月29日、同誌が開催したイベント「'86 モモコ・パーティー」におけるオーディション、『第2回 ミスモモコクラブ』で「ミスVHD賞」を受賞した酒井は、同年11月21日に VHDソフト 『YUPPIE』を発売し、本格的にデビューを飾った。VHDソフトを用いたアイドルのデビューは世界初であった。またこの作品では、彼女が初めてレコーディングをした『お願いダーリン』が挿入歌として使用されている。テレビでは同時期放送開始のTBS系『モモコクラブ』にレギュラー出演し、番組の中心メンバーとして人気を博す。この時期から酒井は自身を「のりピー」と自称、同時に「のりピー語」を用いるようになった。

翌1987年(昭和62年)2月、『男のコになりたい』でアイドル歌手デビューし、オリコン最高6位と幸先のいいスタートを切る。同年の新人賞レースには数多く参戦し、畠田理恵、立花理佐、BaBe、坂本冬美との激戦をくり広げた。また、『第18回 日本歌謡大賞』では最優秀放送音楽新人賞を受賞した。

アイドル時代、酒井の活動は多岐に渡り、芸能活動のほかにイラストレーター・漫画家(ペンネームは平仮名の“さかい のりこ”)としても活動し、少女漫画雑誌『週刊少女コミック』に漫画の連載を持ったこともある。中学生の頃に自ら生み出したというキャラクター『のりピーちゃん』は、日本自動車工業会の交通安全ポスターにも使われた。また、そのキャラクターグッズも自身のショップ 「NORI-P HOUSE」[注 4]で販売されて人気を博し、当時のタレントショップブームの一翼を担った。1988年7月、富士山の8合目(標高3300m)の山小屋にグッズ店「のりピーちゃんハウス」を開店。「日本一標高の高いタレントショップ」として話題となった。1991年には5合目の山小屋に富士山2号店がオープンしている。同年「のりピーハウスレーシングチーム」というチーム名でN1耐久レース(現在のスーパー耐久)にも参加し、チーム監督として酒井が着任していた。

平成期の活動:アジア各地での人気、女優・歌手

タレントとして伸び悩んでいた酒井は、1990年当時、日本の芸能界が目を向けていなかった中華民国・台湾での活動を始め、香港、中華人民共和国など、中国語圏各地においても、日本での評価以上の人気と知名度を獲得。中国語歌唱による楽曲も発表した。1992年(平成4年)5月には、初めての海外公演として、中華民国台北市でのコンサートを成功させた。1998年には、中国の中国唱片社が発行する音楽情報誌『音像世界』5月号に掲載された同年3月分のランキングで1位に登場し、同誌6月号では表紙を飾った。

「微笑みを見つけた」を中国の標準語(普通話)による歌詞でカバーしている(タイトルは「微笑」)。広東語バージョンは黎瑞恩の歌による「你知我想說甚麼」。
1993年、脚本家の野島伸司に引き立てられ、主演したドラマ 『ひとつ屋根の下』(フジテレビ)、続いて1995年に『星の金貨』(日本テレビ)が立て続けにヒットする。同ドラマの主題歌となったシングルCD『碧いうさぎ』は自身初のミリオンセラーとなり、デビュー9年目にして初めて 『第46回NHK紅白歌合戦』(1995年)に出場した。ドラマでの役柄に合わせて、酒井はこの楽曲を、NHK紅白歌合戦史上初めて、日本手話を交えて歌った。

1996年(平成8年)3月には、個人事務所 「エヌ・コーポレーション」(東京・南青山)設立、継母と共に取締役に就任した。
その後、結婚・出産を経た酒井は、子育てと女優活動を両立、2003年(平成15年)には、伊藤忠商事とサンミュージックが設立した洋服ブランド、『ピーピーリコリノ (PP rikorino)』のプロデュースを始める。さらに、日中文化スポーツ交流年(2007年)・文化親善大使となって、様々なイベントに参加し、当時の内閣総理大臣・安倍晋三とも面会、また、最高裁判所制作による、裁判員制度のPR映画『審理』(2008年)に主演するなど、芸能人としてのステータスを高めていた。 (「Wikipedia」より)



あちこち「SYOWA」(番外)前田穂南 特集 北海道マラソン優勝

2019-09-15 20:38:28 | 日記
オリンピック選考レース優勝おめでとうございます。過去の活躍を振り返りました。身長があるということは歩幅が大きいということ。オリンピックでのご活躍を期待しています。



前田穂南 特集 北海道マラソン優勝



前田 穂南(まえだ ほなみ、1996年7月17日 - )は、日本女子の陸上競技選手。専門種目は中距離走・長距離走・マラソン。2017年北海道マラソン女子の部優勝、2018年大阪国際女子マラソン2位。2018年山陽女子ロードレース大会ハーフマラソン優勝。

人物・経歴

学生時代

1996年7月17日、兵庫県尼崎市出身。尼崎市立園和北小学校の5年生の頃から陸上競技を始め、6年生の時には校内マラソン大会で優勝している。2011年・尼崎市立園田東中学校の3年生時には、地元・尼崎市中学校総合体育陸上大会で、800m走・1500m走で2種目制覇を果たしている。

中学卒業後の2012年4月、大阪府の陸上強豪校である大阪薫英女学院高等学校(大阪府摂津市)に入学。兵庫から大阪まで通学していた。2014年に大阪薫英女学院高等学校は全国高校駅伝女子の部で初優勝しているが、先輩に松田瑞生、同期に加賀山姉妹、後輩に高松望ムセンビと実力者が揃っていた為、3年間補欠登録され都大路を走ることは出来なかった。

実業団入り後

2015年4月、高校を卒業し岡山市の実業団チーム・天満屋へ入社し、女子陸上競技部に所属。天満屋の先輩には小原怜(2015年世界陸上北京大会女子長距離走日本代表)・重友梨佐(ロンドン五輪女子マラソン日本代表)などが所属しており、実業団選手となってからはトラックレースや駅伝の主要メンバーとして活躍している。
2019年アスリート用スポーツサングラスメーカーであるSWANSとアドバイザリースタッフ契約を締結した。

マラソン歴

2017年1月29日の大阪国際女子マラソンで初マラソン。ネクストヒロイン選手として出場し2時間32分19秒の12位でゴールしている。(優勝は天満屋の先輩である重友梨佐)

2017年8月27日の北海道マラソンに国内招待選手として出場。27km付近で野上恵子(十八銀行)が飛び出し、1度は離されたが、その後も冷静にレースを進め33km過ぎで追いつき逆転し2時間28分48秒で優勝した。その結果、マラソングランドチャンピオンシップ(2020年東京オリンピック・女子マラソン選考会)の出場権を獲得した。

2018年1月28日の大阪国際女子マラソンに国内招待選手として出場。序盤から先頭集団でレースを進め、ハーフを過ぎた頃に当時の現役最速タイムを持つ安藤友香(当時:スズキ浜松AC)、大阪薫英女学院高校1学年先輩の松田瑞生(ダイハツ)と前田穂南の3選手が残り、日本人女子3選手の三つ巴となった。25km付近で前田穂南が仕掛け、ペースメーカーの前に1人で飛び出し独走態勢となるが、後方から様子を窺っていた松田瑞生も26kmからペースメーカーの前に出て前田穂南を追い始めた。安藤友香は松田瑞生についていけずスローダウンし、レース後半は松田瑞生との大阪薫英女学院高校の先輩後輩対決となった。前田穂南は必死に逃げたが松田瑞生に徐々に距離を詰められてしまい30km過ぎで追い抜かれ、その強烈なロングスパートについていけず結果2位となった。しかし、後半も大きくペースダウンする事なく2時間23分48秒でゴールし自身の記録を5分短縮し自己ベストを更新した。

2018年9月16日、ベルリンマラソンに出場。スタート直後からハイペースの松田瑞生にはつかず5kmごとのラップ16分台で天満屋所属の小原怜と並走していた。中間点を1時間11分24秒で通過後に小原が遅れたが、前田は自己記録を更新するペースで走り続け、25km手前で日本人トップを走っていた松田瑞生に追いついた。ところがレース後半でスローダウンしてしまい松田に逆転され、結果は2時間25分23秒の総合7位日本人2位と、同年1月の大阪国際に続いて日本女子トップの松田瑞生に敗れる事となった

2019年3月3日、東京マラソンに出場。練習を順調にこなし2時間21分を目標に掲げていたが、当日は雨で気温が低く、スタートして15kmで足が動かなくなり徐々に失速し始めた。優勝したルティ・アガ(エチオピア)には10分以上離されたが、30km地点で42秒差あった清田真央(スズキ浜松AC)をとらえ総合12位日本人2位でゴールしたが、寒さに震えていたという。
2019年9月15日、マラソン・グランドチャンピオンシップに出場し、2時間25分15秒で優勝。2020年の東京五輪出場を決めた。

自己記録

1500m 4分28秒15(2014年7月20日・インターハイ大阪府予選会)
3000m 9分23秒06(2016年7月7日・ホクレンディスタンスチャレンジ深川大会)
5000m 15分38秒16(2018年7月14日・ホクレンディスタンスチャレンジ士別大会)
10000m 32分13秒87(2018年7月11日・ホクレンディスタンスチャレンジ深川大会)
ハーフマラソン 1時間9分12秒(2018年12月23日・山陽女子ロードレース)
マラソン 2時間23分48秒(2018年1月28日・大阪国際女子マラソン)(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 650 大阪しぐれ 都はるみ 

2019-09-14 23:25:19 | 日記
昭和の貫禄。風格。そういった雰囲気ををごく自然に醸し出しています。「あんこ椿」の時代の姿とは全く違います。ここまで自然に深まっていった。ごく自然に。・・・自然にではない。はは、私の印象です。お許しください。

大阪しぐれ 都はるみ 14 1990' UPL-0013



都 はるみ(みやこ はるみ、1948年(昭和23年)2月22日 - )は、日本の女性演歌歌手。本名・北村 春美(きたむら はるみ)。京都市生まれ。レコード会社は日本コロムビアに所属。所属事務所は「コロムビア音楽芸能」、「サンミュージックプロダクション」、「プロデュースハウス都」を経て再びサンミュージックに所属。血液型はB型。「はるみ節」と呼ばれる独特の力強い歌唱法を持ち、昭和後期を代表する国民的演歌歌手として数多くのヒット曲を世に送った。


略歴

京都市出身。芸能好きの母親が、はるみが5歳の時から日本舞踊とバレエを習わせ、6歳の6月6日から母親自ら浪曲と民謡を教え始める。洛陽女子高等学校の当時の学校長の話によればいきなり「歌手になります!」と言って中退したそうである。当時似たような若者は多く、そのうちの一人としか思っていなかったが大成功した。在学当時から歌ばかり歌っていて成績はかんばしくなかったと言われている。
1963年、第14回コロムビア全国歌謡コンクールで優勝。

1964年、「困るのことヨ」で、デビュー。同年「アンコ椿は恋の花」がミリオンセラーになる大ヒット、第6回日本レコード大賞・新人賞を獲得する。「はるみ節」と呼ばれる、うなり声のような力強いこぶし回しや、波打つような深いビブラートが独特で、昭和40年代〜50年代にかけて数多くのヒット曲を生み、名実ともに日本を代表する女性演歌歌手となった。

1973年、「サンミュージックプロダクション」に移籍。
1976年、「北の宿から」で第18回日本レコード大賞・FNS歌謡祭最優秀グランプリなど数々の音楽大賞を受賞する。1980年、「大阪しぐれ」で第22回日本レコード大賞・最優秀歌唱賞を受賞。なお、当時の日本レコード大賞で大賞・新人賞(現・最優秀新人賞)・最優秀歌唱賞の三冠を達成したのは、都が初の快挙だった(その後細川たかし・北島三郎・氷川きよし・近藤真彦も日本レコード大賞・三賞全てを獲得)。

1984年3月、人気・実力ともに絶頂だった36歳において「普通のおばさんになりたい」と突然の歌手引退を宣言。この年の『第35回NHK紅白歌合戦』出場を最後に一旦引退。都の引退に際して各種メディアが特集番組を組むなど、一種の社会現象となった。一時引退までの20年間のレコード・テープの総売り上げは日本コロムビア調べで630億円に達し、1984年12月の1か月だけで4億5000万円を売り上げた。

1987年、音楽プロデューサーとして活動再開。新人女性演歌歌手大和さくら、キム・ヨンジャのプロデュースを担当する。1989年、『サンデープロジェクト』(テレビ朝日)に「普通のおばさん代表」として登場。コメンテーターおよびスポーツコーナーのレポーターを務めるが、この頃同年6月に52歳で亡くなった美空ひばりの訃報に触れ、印象的なコメントを番組内で発表。これを機に歌手復帰を決心する。またこの年の『第40回NHK紅白歌合戦』に出場し、「アンコ椿は恋の花」を歌唱。引退後、丸5年ぶりのステージだったが、以前と変わらぬ歌声を披露し、復帰の声が一層高まる。翌1990年、歌手活動の完全復帰を発表。従来の演歌にとらわれない幅広い作品も歌うようになる。

2008年、新東京国際空港2期工事予定地内にある反対派農家の庭で開かれた「三里塚の星空コンサート」に出演した。このコンサートは反対派(三里塚芝山連合空港反対同盟旧熱田派)だけでなく周辺市町や新東京国際空港公団等も支援して開催された。当日は曇り空で星は見えなかったものの、「涙の連絡船」「アンコ椿は春の恋」「ふたりの大阪」「好きになった人」等20曲近くを熱唱した。(→成田空港問題の年表)

2008年、デビュー45年目を迎え、「3大劇場座長公演」を行った。個人事務所の社長で長年私生活でもパートナーであった中村一好が死去。2009年、個人事務所の「プロデュースハウス都」から、古巣の「サンミュージックプロダクション」へ復帰した。
2005年、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。2010年、紫綬褒章を受章。

2015年11月24日、東京国際フォーラムでの全国ツアー最終日に、翌2016年の1年間単独コンサート活動を休業することを発表。また同年12月16日には、五木ひろし司会の音楽番組「日本の名曲 人生、歌がある“3時間スペシャル 都はるみトリビュート”」(BS朝日)への登場をもって、テレビ出演も当面見合わせている。

翌2016年2月18日、TBSラジオ「大沢悠里のゆうゆうワイド」にゲスト出演したものの、都は充電中の近況を「精神的にスッキリした感じ」と報告ののち「この歌でもういいかなと思うこともある。いい詞に出会えばいいけど、なかなか巡り会わない」など、具体的な活動復帰には否定的なコメントを残した。都がマスメディアに登場したのは当番組が最後となり、2019年現在も芸能活動は歌手業も含めて完全休止状態となっている。 (「Wikipedia」より)





あちこち「SYOWA」649 シネマホリック「紀子の食卓」吹石一恵インタビュー

2019-09-12 16:23:19 | 日記
これは昭和ではない。そうです。例の「敢えて・・・」の部類です。それにしても結婚・・・。世の女性から・・・。というのは老人の妄想でしょうか。


シネマホリック「紀子の食卓」吹石一恵インタビュー




吹石 一恵(ふきいし かづえ、1982年9月28日 - )は、日本の女優、タレント。
大阪府生まれ。3歳頃に奈良県香芝市へ。舞夢プロ東京事務所所属。ハルナ幼稚園、香芝市立三和小学校、香芝市立香芝中学校、大阪女子短期大学高等学校、大正大学文学部日本語日本文学科卒。
父親は元プロ野球選手の吹石徳一。夫はシンガーソングライターで俳優の福山雅治。


略暦

1983年、1歳の頃に紙おむつ「メリーズ」CMの初代キャラクターとなり、小学生時代には関西ローカルのテレビ番組『わいわいサタデー』の「小学生美人コンテスト」にも出場している。1996年頃から、舞夢プロに所属する魔女ランド倶楽部のメンバーとして関西を中心に演劇やライブなどの芸能活動を行っていた。

1997年、ゲームの映画化作品『ときめきメモリアル』の藤崎詩織役でメジャーデビュー。同時にこの作品のテーマソング『セピアの夏のフォトグラフ』で歌手デビュー(プロデュースは広瀬香美)も果たす。この年には藤崎奈々子・嘉門洋子・柳明日香とともにフジテレビのビジュアルクィーン・オブ・ザ・イヤーに選ばれるなど、アイドルタレントとして好調なスタートを切った。

1999年にはNHK総合のドラマ『女性捜査官アイキャッチャー』で、弟を事故で亡くした寂しさをシンナーで紛らわせる女子高生という難役を演じ、この時の苦労が女優としていい経験になったと後に語っている。同年夏には現役女子高生アイドルの登竜門とも言える「ビクター・甲子園ポスター」キャンペーンのモデルを務めた。

2001年には初主演映画『あしたはきっと…』(三原光尋監督)が公開。夏祭りの日に不思議な出来事を経験する高校2年生の少女・夏音を演じた。この作品の一場面では子供の頃から習っていた空手の組み手を披露している(2004年に黒谷友香とともに出演した『関口宏の東京フレンドパークII』でも空手を実演した)。同じ年、韓国映画のリメイク作品『時の香り〜リメンバー・ミー〜』でも主役を務めた。12月には第一種普通自動車運転免許(AT限定)を取得している。

2002年には資生堂ANESSAのCMに出演し、写真集・DVD『FUKIISHI』を発売。なお、この時点で「水着グラビアの仕事は卒業」と宣言していたが、2年後の2004年にマルイのCMで再び水着姿を披露した。「公約を破って水着を復活した」件については、当時彼女が公式HPにて事務所を通じて弁明を行っている[1]。また2002年にはNHK夜ドラ『ロッカーのハナコさん』でもメインキャストの一人である悩み多き新人OL役を演じ、コメディエンヌ的な演技が新生面を拓いたと評された(翌年放映の続編『帰ってきたロッカーのハナコさん』でも同じ役を演じた)。

2003年公開の映画『ウルトラマンコスモスvsウルトラマンジャスティス』ではウルトラマンジャスティスに変身する女性・ジュリ役を演じ「初の女性ウルトラマン」と話題になる。翌2004年公開の映画『着信アリ』では、衆人環視のもと幽霊に首をねじ切られ殺害される女子大生というショッキングな役どころを体当たりで演じた。また大河ドラマ初出演作品となる『新選組!』では初めての男装役に挑戦した。なお、2005年に卒業した大学の卒業論文のテーマは「脚本における日本語」で、三谷幸喜によるこの大河ドラマの脚本を取り上げたものである。

女優以外の活動では、かつて解答者として出演していた『世界ふしぎ発見!』のほか、2005年10月から2007年3月までは、フジテレビ・関西テレビの情報番組『スタ☆メン』で初めてのコメンテーターをこなす。

2004年の大河ドラマ出演以降、2006年まで女優としての活動は映画出演がメインになり、テレビドラマはNHK『氷壁』でのレギュラー出演を例外に、いく本かの単発ドラマ出演にとどまった。『氷壁』では、玉木宏とマルイのCM以来2度目の共演であるが、CMと違い玉木に振られる役どころだった。出演映画では2006年5月に前年の東京国際映画祭でグランプリを獲得した『雪に願うこと』(根岸吉太郎監督)、9月には主演映画『紀子の食卓』(園子温監督)が公開された。さらに翌2007年2月には、90年代のバブル時代のボディコンファッションに身を包んだテレビキャスターに扮した『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』(馬場康夫監督)、および恋とカーリングにまっしぐらの売れない女優役で主演した『素敵な夜、ボクにください』(中原俊監督)の2本の映画作品が公開されている。

2007年になって、テレビドラマではテレビ東京の正月ワイド時代劇『忠臣蔵 瑤泉院の陰謀』に出演したほか、TBS系『華麗なる一族』で民放連ドラでは3年ぶりのレギュラー出演を果たした。春以降も日本テレビ系『バンビ〜ノ!』(4 - 6月放映)・TBS系『山田太郎ものがたり』(7 - 9月)と連ドラに立て続けに出演するなど、映画がメインであった前年と異なり、テレビでの活動が目立っている。特に漫画原作の『山田太郎ものがたり』ではコミカルな役柄を演じて注目を集めた。

また生真面目なイメージのせいか『山田太郎ものがたり』に続き、近作では映画『ALWAYS 続・三丁目の夕日』(2007年公開)・『春よこい』(2008年公開)、テレビドラマ『フルスイング』、テレビドラマ『ROOKIES』において、いずれも教師役を演じている。同様な役柄での出演が続いていることについて本人は「先生役を極めてみたい」と語っていたが、2008年後半期にはTBS系ドラマ『SCANDAL』ではメインキャストとして年上の美容整形外科医と結婚した小悪魔風の若妻役を演じ、これまでとは一転して大胆なラブシーンをこなすなど演技の幅を広げつつある。そして2009年になってNHKドラマ『ガラス色の恋人』(単発)および『風に舞いあがるビニールシート』(土曜ドラマ)ではひさびさの主演を果たすことになった。

女優以外では、先述の『スタ☆メン』のほか、年末の秋葉原を紹介したドキュメンタリー番組『にっぽんの現場』(2005年末放映)や、それを基に2006年10月からレギュラー化された『ドキュメント72時間』でのナレーターなど、タレントとしての多彩な活動も行っている。また、6月から10月にかけて期間限定のブログ『毎日が極上Happy!フッキーの徒然ブログ』を運営した。
2008年4月末発売の女性誌ananで初ヌードを披露した。

2015年9月28日、シンガーソングライターで俳優の福山雅治と結婚。2016年8月28日、第1子妊娠が発表された[7]。同年12月22日、福山のファンクラブサイトを通じて第1子出産が発表された。出産日や性別などの公表は行われていない。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」(番外) Official髭男dism - 宿命[Official Video]

2019-09-01 01:00:18 | 日記
娘に勧められて聴きました。いいじゃないですか。高齢者でも胸に響くものを感じます。

Official髭男dism - 宿命[Official Video]


Official髭男dism(オフィシャルヒゲダンディズム、英: Official HIGE DANdism)は、日本のピアノPOPバンドである[3][4]。2012年結成。所属事務所はラストラム・ミュージックエンタテインメント[5]。レーベルはポニーキャニオン。公式ファンクラブは「BROTHERS」。略称および愛称はヒゲダン。


概要

2012年6月7日結成。バンド名の由来は髭の似合う歳になっても、誰もがワクワクするような音楽をこのメンバーでずっと続けて行きたいという意思が込められている。

島根大学と松江工業高等専門学校の卒業生で結成されており、愛称は「ヒゲダン」。
2015年4月22日 1stミニアルバム「ラブとピースは君の中」をリリースし、インディーズデビュー。
2018年4月11日 1stシングル「ノーダウト」をリリースし、ポニーキャニオンからメジャーデビュー。Billbord Japan Hot 100で16週連続チャートインを記録。

MTV VMAJ 2018で最優秀邦楽新人アーティストビデオ賞をメジャーデビュー曲「ノーダウト」で受賞。
2018年10月18日シングル「Stand By You EP」をリリースし、全国27局のFM/AM局でパワープレイを獲得。10月度オンエア回数月間1位を獲得。表題曲「Stand By You」は当時ノンタイアップ曲であったが、「Billbord Japan Hot 100」ノンタイアップ曲初のTOP10入りを果たした。


メンバー


藤原 聡(ふじはら さとし)。ボーカル、キーボード、プログラミング、パーカッション、作詞、作曲担当。
人物
大学卒業後、地元金融機関に就職し、2年間営業マンを経験。鳥取県立米子東高等学校時代は吹奏楽部でパーカッションを担当し、元ドラマーで実はメタル好き。ボーカルを始めたのはofficial髭男dismを結成した時から。あだ名は「さとっちゃん」。好きな食べ物はホルモン、トマト、パクチー。身長は164cm。



小笹 大輔(おざさ だいすけ)。ギター、コーラス担当。
人物
松江工業高等専門学校電子情報システム工学専攻を卒業。学校での専攻は「電子情報システム工学」で、カオス理論の研究をしていた。卒論のテーマは『カオティックブレイク実装によるニューラルネットワーク』。 コンパクトエフェクターの自作・改造が可能。 Hi-STANDARDのコピーからギターを始め、パンク・メロコアが好き。動物好き。特に猫が好きで実家で飼っている猫を溺愛している。名前は「ひな」と「こたろう」。好きな食べ物は麻婆豆腐。あだ名は「おざだい」。身長は158cm。2019年7月30日、バンド公式サイトを通じて、かねてより交際していた一般女性と結婚したことを報告した。



楢﨑 誠(ならざき まこと)。ベース、サックス、コーラス担当。
人物
広島県立神辺旭高等学校吹奏楽部出身。音楽の教員免許を持っており、島根県警察音楽隊でSaxを吹く仕事をしていた経験を持つ。それを活かしライブでもSaxを吹き始め、「55」「ブラザーズ」ではバリトンサックスをREC。料理が得意。あだ名は「ならちゃん」。身長は169.8cm。

松浦 匡希(まつうら まさき)。ドラムス、パーカッション、コーラス担当。
人物
中学生で剣道初段を取得。在籍していた剣道部では部長を務め、団体戦では主将を任されていた。 中学2年生の時、米子市総体で準優勝した経験を持つ。 アニメに関する知識が広く、釣りが趣味。あだ名は「ちゃんまつ」。好きな食べ物はカンパチと白米。身長は178cm。

結成の経緯

藤原(Vo.&Pf.) が島根大学在学中、同じ軽音楽部だった楢崎(Ba.)・松浦(Dr.) と、学外で仲が良かった小笹(Gt.) に声をかけ結成。
藤原と小笹は別バンドで対バンした際に、お互い「Children Of Bodom」というメタルバンドが好きだと分かり意気投合。
2016年2月に活動を本格化させる為に上京。(「Wikipedia」より)