フリージア工房 国道723号店

ハロプロメンバーを応援してアイドル音楽を愛するエッセイブログ

℃-uteの歌声

2012-10-30 21:47:03 | ハロプロ(℃)

 アイドルの歌声というものは非常に繊細なもので、中学生くらいでデビューしたアイドルなら、リリースしてきたCDは「声の成長記録」とも言えるものです。

 ℃-uteの初期の曲をCDで聴いているとメンバーの歌声が高く、そしてそれが初々しさに溢れています。たとえば大きな愛でもてなしてタイムカプセルあたりは今と違う鈴木愛理ボイスが堪能出来ます。
 ところが初期の曲を聴くと今は在籍していないメンバーの歌声も耳に入ってくる。℃-uteはメンバーの歌声にそれぞれ特徴あるから、その歌声もはっきり認識出来て聴く者に何かを感じさせる。
「懐かしいなあ。今元気にやってるかなあ」
「思い出して辛くなる。なぜ辞めてしまったんだ」
「誰かわからない歌声が聞こえてくる」
 あなたはどれですか?

 以前は、せめてシングル曲くらいは現在のメンバーで再録音したバージョンを発売してほしいと思っていました。つまりコンサートの歌割と同じバージョンです。大きな愛でもてなしての「たくさん恋出来ちゃう」とか、聴く度にいちいち色々思い出してしまう。私はハロプロを聴く時は歌っている映像も脳内で同時再生して聴いたりする事が多々あるので、この曲を聴くとめぐを思い出してしまう。歌詞が歌詞だけに。

 しかし、℃-uteが最初に出したベスト盤は初期の曲もそのままで発売された。何故そうなったかの理由は色々あるだろうし、とても美しい美談を噂としても聞きました。ソースのない話なので真実かはわかりませんが、私はその噂を信じています。メンバーのお姉さん的存在として慕われていたあのメンバーならば、確かにそういう提案をしそうだなと思いながら。

 今回発売される2作目となる℃-uteのベスト、昔の曲を歌い直していると知った時は動揺しました。以前は現在のメンバーで歌い直して収録してほしいと思っていた筈なのに、今回はそうしてほしくないという気持ちが強かった。

 ℃-uteを取り巻く環境が変化していき、今のメンバーになってからファンになった人も増えてきた。コンサート会場の雰囲気も明らかに以前とは違うものになってきた。だからこそ、現在のメンバーで初期の曲に新たな命を吹き込む必要がある。これは必然である。それは強く思う。
 しかし、それは理解しているけれど、こうしてカタチを作られてしまった事で八人時代や七人時代が過去のものであり、歴史上の出来事だという現実を突き付けられ、うろたえている自分がここにいる。昔の℃-uteも℃-ute。今の℃-uteも℃-ute。それはそうであるけれど、ステージで再現出来ないものは過去のものなのであります。それは意味合いとしては解散したグループに少しだけ近い。

 この新しく提示された初期曲を聴く事で懐古気分に浸る事もなく、初期曲が現在のナンバーとして新しい存在感を身につける。この事実はなんて素晴らしい事なのだろう。しかし本心の片隅では、辞めていったメンバーの存在感が薄まってしまうのが嫌なのだなとわかってもいる。七人時代にめぐの存在がそうなっていったように。
 そんな余計な事を考えてしまうのは、タイトルに「神聖」なんて大げさな文字が入っているからに違いありません(苦笑)。八人時代や七人時代はどんな形容詞が似合う時代だったのだろうと振り返りながら、昔を知らないファンの人達も昔の映像などで「見知らぬ過去」を見つめてほしいと願うのでした。その願いは私にとっては、とても神聖なのであります。

℃-ute 大きな愛でもてなして(2012) 神聖なるVer.

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ブログ始めます コミュニケーションします

2012-10-28 21:55:25 | ハロプロ(ベリ)

 モーニング娘。の9期10期に続き、今度はBerryz工房のメンバーもブログをスタートさせるという流れになりました。今まではキャプテン清水佐紀ちゃんしかブログをやっていなかったBerryz工房が果たしてブログを続けられるのか?特に、セレンドでの低更新度が知られる桃子は大丈夫なのか?ツイッターも気まぐれツイート状態な千奈美は?と心配で仕方が有りません。
 これも時代の流れ。これもアイドルのサダメ。デジタルコンテンツに消極的と言われてきたハロプロが、気づけばブログだ、ツイッターだ、動画配信だ、などとここ数年は積極的に攻めています。でも、ふと思ったのが「ブログやツイッターは義務にしなくてもいい」という事。メンバーによっては文章を書くのが苦手な人もいるだろうし、余計な事を書いて問題になったりするくらいならやらない方がマシだと思ってしまったり。
 しかし、メンバーをより身近に感じる事が出来て、コメントを書く事で自分の何か気持ちを伝える事も出来るというブログは実はアイドルに於けるメリット(宣伝効果とか)よりも、ヲタが受ける精神的な充足感が大きい気がいたします。せっせと書いたコメントを読んでもらえたら嬉しいものですよね。

 そう考えるとブログというものは、毎日握手会をやっているようなものとも言え、近況報告をアイドルが書く事に関しては毎日ラジオ番組をやっているようなものなのでしょう。

 どちらもBerryz工房の得意分野では無さげではあるのですが(笑)。

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地元と呼べる町での凱旋公演

2012-10-23 21:31:17 | ハロプロ(娘。)

 私が以前から疑問に感じているのは「出身都道府県での開催なら凱旋公演になるのか」という疑問。先日ツイッター上でモーニング娘。の川口リリアホールでの公演が埼玉県出身メンバーである工藤遥凱旋公演として、ヲタ有志がサイリウム祭を行なうという話題に対しての疑問のつぶやきがありました。出身市町村の場所によっては「ただ同じ県というだけ」で、地元と呼ぶには難しい公演があるのは事実であります。

 私が以前参戦したモーニング娘。の九州厚生年金会館でのコンサートはトークで微妙な空気が生まれました。福岡県福岡市出身の田中れいなに対して、北海道出身のあるメンバーが「れいな、地元なのに今ひとつノリが悪いね」と語りかけたのです。会場のある場所は北九州市の小倉、福岡市からはかなり離れており、方言や文化も異なるため、同じ福岡県と言っても別な県の町みたいに接点は少ない。北九州市はむしろお隣の山口県との結びつきが強く、この日さゆは「小倉には山口にいた頃に家族でよく買い物に来た」とトークで話していたくらいです。

 こういう違和感は他にもあって、新潟県長岡市出身の久住小春の凱旋祝いを新潟市での公演で行なったのも、私のように新潟県に縁がある者には違和感があり、山口県宇部市出身の道重さゆみ凱旋公演が山口県周南市なのにも違和感がある。
 どちらも会場の手配の都合で仕方がないとはいえ、町と町の結びつきというものは非常にデリケートなものだから気になるのであります。ただ、地方の場合は一つの県に複数の公演をツアーに組み込む事は希であるため、市町村の位置関係よりも地元県に凱旋してきた公演であるという意味では許容範囲と言えなくもなく、実際小春は普通に喜びをコメントし、さゆも地元愛とお祝いへの感謝を述べています。

 一番いいのは、やはり出身の町でコンサートが出来る事。私は宇部市でモーニング娘。のコンサートが開催されたら何が何でも参戦するつもりです。

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buzz word

2012-10-21 22:25:17 | アイドル etc

 先週ひめキュンフルーツ缶の東京ライブに行ってきました。会場の原宿アストロホールはキャパシティ350人のライブハウス。チケットは完売し、後ろまでぎっしりと観客で埋まる会場でした。オールスタンディングです。
 しかし、歌が始まっても強引な圧縮も起こらず、それでも各人が自分の場所で激しくノッている。ステージのメンバーはひたすら疾走感に溢れる動きで、挨拶やフリートークも手短に済ませてひたすら歌で攻めてきます。どの曲もフルサイズでアンコール含めて23曲を魅せた五人に会場は惜しみない拍手を贈るのでした。

 ひめキュンという名前とメンバーの風貌から、グループのイメージは可愛いアイドルポップスを歌っているのだろうと思われそうだけれど、彼女達は基本的にロック的世界の空気感の中でライブを行っている。ステージの後ろにはメンバーをモンスターに見立てた幕が掲げられ、グッズ売場で売られているTシャツは黒をベースに荒々しい文字を並べたロックテイストのデザインのシャツが多い。
 可愛い女の子がガールズロックを歌うという流れは別に珍しくもなく、ハロプロにもBuono!という存在がいるし、他の事務所にも存在しています。しかし、それらのガールズロックアイドルとひめキュンが決定的に違う点は、毎週のように小さなライブハウス(松山サロンキティホール)でライブを行い、レパートリーにロックバンドのカバー曲がいくつかある事。そして、そのカバーがアイドル側からの一方的な作品ではなく、カバーされた側もひめキュンの存在を認知し、いわば共存している状態である事。この日のライブでも、カバーされている側のメンバーが観に来ていたそうです。
 そういう下地があるから、グッズをロックテイストにしてもそれほど違和感も感じず、むしろひめキュンヲタはそういうロックテイストを愛して積極的にグッズを身につける。だから、そういうテイストが苦手な人は近寄りがたい存在であるかもしれない。でも、それがひめキュン現場であります。
 勿論、これは東京での話だから地元松山ではもう少し幅広くお客さんを迎え、ノリも違う事は付け加えておきます。

 今回のツアーで歌い始めたカバー曲に「buzz word」という曲があって、ライブに向けた予習のために私はオリジナルであるニッポリヒトのバージョンのMVをYouTubeで見ました。
 そこに展開されている映像は、笑いながら踊りながらパイを受ける女の子。次々とパイを受けながらも彼女は歌う事を止めず、しまいには変顔セットを身につけて自らを道化として歌を続ける。そして、更には服を脱ぎ捨て水着になって歌う。
 その姿は様々な情景をそこに重ねる事が出来て、それは世の中の不条理を、悲しい現実を、ひたすら明るく表現している映像でありました。

 世の女の子は綺麗でありたいと願う。しかし、全ての女の子が自分の理想とするルックスとスタイルを手に入れられる筈はなく、努力やお金だけでは乗り越えられない壁に気づきながら日々を歩んでいく。心に涙を溜めていても、それは表には見せずに笑顔を振りまく。それなのに次々と現れ、止まない壁の出現と存在。
 いつしか開き直り自虐に走ったり、体で勝負をしたり、しかし力を込めていけばいくほどに傷口は広がっていく。
 そうした葛藤の行き先に開き直った者の一発逆転もあるかもしれない。しかし、成功者も挫折者も、みんな夢と現実のギャップから逃げる事は出来ない。

 ニッポリヒトのMVを何度か見てから臨んだひめキュンバージョン。アレンジも少し音を軽くしていたりして変化していたし、メンバーもニッポリヒトほど声を張り上げて歌う事もないから、一見すると淡々と歌が流れていくようにも感じた。しかし、ライブでの歌は生き物であるから、歌が終盤に差しかかると次第に声に力がみなぎっていくのがわかりました。そう、メンバーも曲と一緒に成長しているし、変化をしている。

 メンバーはまだ本心としてはこの曲の歌詞を実感出来ていないまま、ただそのドラマチックな曲の流れに身を委ねながら歌っているだけかもしれない。しかし、いつの日か夢と現実の間には見えない壁がある事を知った時に、この曲を思い出してほしい。この曲は人生を歌い、世の中を歌い、そしてアイドルを歌っている。

 私がよく「アイドルには今しか歌えない。或いは、今だからこそ歌うべき曲を大人が提供してあげてほしい。大人の都合で歌わせたい曲を提供するのは愚かな行為」というような事を書くのは、アイドルというジャンルは儚さを表現するジャンルであるからなのです。
 だからこそ、アイドルが表現する言葉について作り手は繊細であってほしいと思っています。

buzz word


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テレビはアイドルにとって必要な場所?

2012-10-17 13:07:13 | アイドル etc

 このブログを検索で訪問した際にどんな検索ワードで訪問したかが「アクセス解析」という編集画面にある機能でわかるのですが、先日こんな検索ワードがその日の第一位になっていました。
「テレビに出られないアイドルのヲタの負け惜しみブログ」
 一体どこでどのように流布され、このブログのどこにそのようなキーワードが関連付けされたのかはわかりませんが、思わず苦笑いでありました。

 なぜならば、私は最近はテレビをほとんど見ない人間なのであります。見たい番組がある時にしか見ません。自分の時間の過ごし方というものは多種多様であるのが本来の人のあるべき姿で、本を読むなり、音楽を聴くなり、DVD、ゲーム、模型作り、勉強、絵描き、なんでも良いと思うのですが、テレビを見るなんてのはその中の選択肢の一つにしか過ぎない。「テレビに出られないアイドル」を残念にも思わないし、「テレビに出ているアイドル」を羨ましいとも思わない。
 アイドルが所属する芸能界という世界はテレビを活動の場として有効活用しているから、その意味ではアイドルとテレビは濃密な関係と言えるかもしれない。しかし、今のテレビにアイドルの魅力を引き出してくれるような番組はいくつありますか?ブラックバラエティみたいに司会や芸人さんがアイドルを巧く引き立ててくれて魅力を発揮させてくれるような番組は希で、バラエティ番組の多くは芸人さんにとってアイドルとはからかって笑いをとる対象。歌番組も減少し、数少ない歌番組も深夜枠。ゴールデンタイムの歌番組はもはや歌の番組ではなくなりつつある状況。
 そんな状況なのに「テレビにどんどん出て欲しい」なんて自分は思えないです。これは負け惜しみなどという次元の話ではなく、出て欲しくないという願望。


 ただ、以前から思っているのは深夜で良いので、一時間くらいの長さでいろんなアイドルが出てきて歌やトークをする番組をどこかのテレビ局でやってくれないだろうかと願っています。
 48系やハロプロやももクロ辺り以外の、要するにTIFに出場しているようなアイドル達がカメラの前で楽しくトークをして、楽しく遊び、そして歌う。そんな普通な内容で良いのです。可愛いものに余計な装飾は要らない。今はアイドルが出てくるバラエティに余計な装飾をし過ぎです。
 東京の大手事務所のアイドル、マイナーアイドル、地方アイドルは東京でライブをやる時にでも収録すれば良い、毎回数組で構成するアイドルバラエティ。司会進行は芸人ではなくアイドルがいい。バニラビーンズが適役かなと思います。番組提供はタワーレコードですね。

 ここまで書いて思いましたが、そういう番組は今の保守思想なテレビ業界では難しい。ある程度の視聴者を要求されるテレビでは専門的な番組は成立しなくなってしまった。ならば専門的な番組がラインナップされるCS放送なら可能性はあるかと言えば、いろんなアイドルを集めて番組を作るのは予算的にテレビ局側にも、宣伝として事務所側にもメリットが少ない。つまり、その手の番組はインターネットでの動画配信がベストという結論になってくる。

 別に世の中に普遍性を持ったアイドルが居るのは問題ないし、そういうアイドルはテレビに出て便利に使われていくのは悪い事ではありません。ニーズの問題ですから。でも、多くのアイドルはテレビよりも制約の少ないデジタルコンテンツで自己表現をしていく方が魅力を伝えやすいし、既にそのような時代になっています。少し前にここにも書いたように、今時全国でリアルタイムで同じものを見られない、情報端末としては致命的な欠陥を抱えるメディアであるテレビは、多様化された今のアイドルというジャンルを伝えていくメディアとしては果たして相応しいのか疑問が強い今日この頃です。

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リアルパフォーマンス③ ~再び歩き出した道~

2012-10-15 22:26:37 | ハロプロ(娘。)

 高橋愛がリーダーになってからのモーニング娘。はCD売上が落ちていった。そして、リーダー就任二年目はシングルが二枚しか出せずに終わる。しかも内一枚はカバー曲である。
 しかし、その年の春のコンサートツアーで今までのシングルを全て歌うという体力を消耗する内容のコンサートを行い、それを乗り切ったモーニング娘。は少しずつ変化を始めていた。高橋愛の持っているスキルを最大限に生かすため、曲は聴かせるタイプか、カッコ良さで魅せるタイプか主流となり、他のメンバーもその方向性の元に大きな変化を遂げていく。モーニング娘。はもはや「変な歌を楽しく歌うグループ」という世間の持つイメージの対極へとシフトチェンジを完成させつつあったのだ。

 CD売上は落ちても、残ったファンがその新しい形のモーニング娘。を支持し、動画サイトでライブ動画を見た人が新規ファンとして少しずつ付いてきた。例えるなら、モーニング娘。の格闘スタイルは限りなくショーレスリングからリアルファイトへ転向していくレスラーの如く、闘いにシリアスさを増していくかのようだった。
 惜しむらくは、この時期に決定的な実績を作れなかった事だ。再び宝塚とコラボレーションした「シンデレラ」という舞台はあったものの、完全なるリアルファイト的世界な仕事をグループとして行なう事はなかった。あくまでアイドルという枠組みの中でワザの精度を磨いていった。そんな時期なのである。現在「プラチナ期」と呼ばれて回顧されている時代である。

 高橋愛はアイドルという枠組みを超えたいと思い、モーニング娘。というグループはメンバーの新加入を一時中断する事によって、各メンバーのスキルとグループの連動感を高めてきた。そのクオリティはなかなかのレベルにまで達したものの、その状態が長きに亘り持続される事はなく、結局「プラチナ期」のメンバーは一年半で六人もグループから去っていった。
 高橋愛がいたからこそ、リアルファイト的世界へ限りなく距離を縮めて近づいていく野望があったのだが、もはやそれは過去のものでしかない。高橋愛はモーニング娘。を去り、自らがアイドルとは違う、やはりリアルな道を歩く事を決意して今に至る。

 だが、残されたメンバー、新たに加入したメンバー、いずれも合わせて新しい違う方向を歩く事は可能であり、メディア露出の増加と合わせて、モーニング娘。は「プラチナ期」からのモデルチェンジが可能であった。それはファンも必要としている前提であると考えてきた。それでも再びモーニング娘。はステージ技術を磨き、技術を見せていく道を選択した。メンバーの実力を超えた場所で再び、キャラクター性ではなく、その実力で評価を受ける世界へ。
 そのチャレンジは決して間違いではないのだろう。多くのファンが望んでもいる。高橋愛が作ろうとしてきたものは高橋愛が居なくても作り、積み上げていく事は出来る。全てのアイドルが世間の持つステレオタイプなアイドルへのイメージというものに沿っていく必要はないのだから。 ~了~。

モーニング娘。 『ワクテカ Take a chance』 (Dance Shot Ver.)

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リアルパフォーマンス② ~限りなく近づいた理想~

2012-10-12 23:30:26 | ハロプロ(娘。)

 黄金期と言われる時期のモーニング娘。のメンバーが毎年卒業していくにつれて、グループの方向性は迷いが見られるようになった。シングルが出る度に路線は変わり、歌のエースが誰であるかも不明瞭になっていくと、さすがにファン離れが加速していった。
 一応事務所的には藤本美貴と高橋愛を歌の柱として据えていきたい風には受け取れたが、彼女達は世間が抱くモーニング娘。のイメージ、変な歌を歌い、トークでも笑わせてくれる明るい女の子達というイメージからはズレていたから、それがそのまま「私の見てきたモーニング娘。とちょっと違う」という印象を与えたのだろう。

 この世間が抱くモーニング娘。のイメージというものが残ったメンバーを苦しめてきた。リーダーが吉澤ひとみになった頃はモーニング娘。は五期と六期のメンバーが支えていたが、五期も六期も世間のイメージを表現するには持ち味が違いすぎた。
 テレビの歌番組に出演すればグループのエースがトークをしなければならないが、モーニング娘。はエースがバラエティ向きではないという欠点をテレビカメラの前で露呈させ、それが影響してかテレビ出演は減っていく。それに比例するようにCD売上も減っていった。

 高橋愛は宝塚に憧れ、歌って踊れる表現者の集団としてのモーニング娘。を選んだ人である。テレビで面白い事を言うためにこの世界に入った訳ではない。しかし、世間もファンの多くもグループに求めているものは理想とは違う方向だ。皮肉な事に高橋愛の歌のスキルが上がるごとにCD売上も落ち込んでいったのだ。

 リアルファイトを望みながら、ショーを戦わなくてはいけない事に悩むレスラーがいたとして、そのレスラーにファンが望むのは「環境への同化」だろう。しかし、その一方でその理想への実現を願うファンもきっと現れる筈である。

 やがて高橋愛の理想に気づき、その考え方に理解を示すファンも現れ始めた。そんな時期に高橋愛の理想と、現在グループが置かれている状況という現実が限りなく譲歩したステージが実現した。「リボンの騎士THEミュージカル」である。
 「リボンの騎士THEミュージカル」は宝塚歌劇団の協力の元に行われ、制作スタッフ、出演者に宝塚の関係者が起用された。これはファンにも大いに歓迎され、舞台は好評をもって幕を閉じた。主演を務めた高橋愛は「アイドルのステージ」ではない場所でも輝ける事への証明となったのではないかとファンは喜んだ。ショーをずっとやらされながら、そこに少しずつリアルファイトの匂いを加えてきたレスラーが初めてリアルファイトをしてきた関係者と同じリングに立ち、それなりの闘いを見せる事が出来た。いつか訪れる本当のリアルファイトが出来る日に向けてへの第一歩。例えるならそんな感じだったのであろう。

Mystery of Life (Ribbon no Kishi the Musical)


 舞台の後にスタートしたコンサートツアーでは明らかにメンバー達の動きが変わっていた。異業種との融合は決して無駄ではなかったのだ。それまでのモーニング娘。がやってこなかった新次元のステージの幕が開いたのだ。高橋愛の理想がアイドルというステージにも好影響を与える事が可能であるという新事実、それが形となって表れてきたのだ。しかし、本当の苦難はこの後に待っているとは、まだ誰も気づいていなかった。

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リアルパフォーマンス① ~敢えてそれを目指す者たち~

2012-10-10 19:20:52 | ハロプロ(娘。)

 高橋愛さんはハロヲタ内にファンも多ければ、アンチも多かった。それだけ存在感があったという事なのだろう。しかし、モーニング娘。に与えた影響は確かに大きかったのは事実なのだ。今回から数回、高橋愛とモーニング娘。をテーマに書いてみたい。以下、文中はメンバーの敬称は略す。

 私が先日から読んでいた文春文庫の「完本 1976年のアントニオ猪木」(柳澤健 著)という本は、ショーであるプロレスの世界に存在しながら生涯で三試合のリアルファイトを行い、それが1976年に集中していたアントニオ猪木の闘いを、様々な資料と多くの関係者の証言で起こった事実を史実として書き綴った本である。結果的にその三試合が多数の人間に影響を与え、異種格闘技戦という概念と理想を抱きながら現実のものとして展開していく人が何人も現れた。
 プロレスはプロレスの世界で完結していれば何の不都合もなさそうであるのに、「負けたらイメージダウン」というリスクを背負ってまでリアルファイトを行なう意味とは何か?史実の記述の最後にはその結論へ作者は導いていく。

 この本を読みながら私はある人物を思い浮かべた。高橋愛である。
 アントニオ猪木はプロレスラーになりたかった訳でも、プロレスしか生きる道はないと覚悟を決めていた訳ではなく、自分の存在の表現の場、或いは理想、夢の実現への過程としての職業としてプロレスを行っていた。だからこそ既存のプロレスに同化する意思はないし、自分の発想で生きていく事が出来た。ショーとしてのプロレスに身を委ねながらも他の格闘技と交わる道も模索出来たのだ。

 通常、アイドルを目指してアイドルの世界に飛び込んでくるような人はアイドルという職業に憧れを持ち、アイドルになりたいという意思を持ってこの世界に入ってくる人が大半である。
 しかし、高橋愛はアイドルになりたくてモーニング娘。のオーディションを受けた訳ではなく、宝塚に入りたく、舞台の世界に生きていくためのステップとしてモーニング娘。を選んだ。彼女が合宿で流した涙はモーニング娘。に入りたくても力が足りない悔しさではあるだろうけれど、その悔しさはオーディションの結果への不安というよりも、出来ない自分への悔しさが大きかったように映った。
 モーニング娘。はスタートはアイドルオーディションで選んだ人選ではないものの、基本的にはアイドルという枠から大きく逸脱する事はなく、あくまで人気アイドルとしての道を歩いてきた。歌やダンスに力を入れてはいても、そのクオリティを売りにしてきた訳ではない。だからこそミニモニ。のようなコミックなユニットも支持を受ける事が出来た。
 モーニング娘。が歌やダンスのパフォーマンスで語られる存在になったのは高橋愛がリーダーになってからの事で、特に2009年以降の事である。新人の加入を中断してメンバー編成を固定化して、グループとしてのコンビネーションを高めできた。その月日が花を開いたその時期を、当時のアルバム名に掛けて「プラチナ期」と今は呼ばれている。
 そのプラチナ期がその後のモーニング娘。やハロプロの活動に於ける価値観を決定付けていったのは確かな事で、それが好まざるべき事態である人達をモーニング娘。から離してしまう結果になった。ところが、そのプラチナ期がモーニング娘。のアイドル生命を延命に導き、更には新たな息吹を吹き込ませる結果になった事は確かだ。それは、高橋愛がアイドルという括りに収まらない逸材であり、その高橋愛がモーニング娘。のリーダーでありエースだったからである。

モーニング娘。『 SONGS 』 ~ナインスマイル~ 2009秋

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アイドル用コンサートホールの妄想

2012-10-09 23:03:34 | ハロプロ2012-2014

 週末にモーニング娘。がコンサートをした中野サンプラザは老朽化にともない数年後には解体される事が決まっているのだけれど、数々のハロプロ関連のコンサートを開催してきたこの会場がなくなったらハロプロはどこでコンサートをやるのだろう。
 日本の音楽界で一番利益を生み出していると追われるジャンルであるポップスに特化したホールというものはほとんど存在しない。クラシックに特化した会場は大都市に存在するし、宝塚や劇団四季のような有名劇団は専用劇場を持っている。歌舞伎のような伝統芸能は基本的に専用の会場で行なわれる。それに対してポップスは地位が低いという訳ではないのだろうけれど、既存の多目的ホールを使っているのが現状なのだ。
 既に一過性の人気ではなく一つのジャンルのようでさえあるジャニーズあたりなら専用ホールを持っていても良いと思うのだけれど、作らない事には勿論理由はあるのだろう。

 しかし、多目的ホールというものは決してアイドルコンサートを観るのに適した会場とは言い難く、特にグループアイドルを観るには不適であるとさえ思う。多くの多目的ホールは客席が縦長の作りになっているが、グループアイドルを見せるのならば横長にした方がステージを広く取れ、客席最後列からステージまでの距離も縦長よりも近く取れる。また、古いホールは立って観覧する事は考慮されていないのか、一階席の傾斜が緩い会場が少なくない。
 仮にアイドル専用ホールなどというものを東京に作るにしても、建設費に見合うだけの収益は上げられるかは疑問だけれど、各事務所が共同出資して千~千五百人クラスのアイドルポップスホールなんてものが作られたら楽しいだろうなと思う。都内の立地の良い場所でその規模の会場は、一階はスタンディングになるライブハウスか、日本青年館などになる。その日本青年館も国立競技場改築計画で取り壊される予定になっている。
 芸能事務所の体質を考えると実現性は低いけれど、このままだと東京はコンサート会場不足に陥り、ハロプロは路頭に迷いかねないのである。などと、余計な妄想をする秋の夜。

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踊るガールに観るガール

2012-10-07 21:26:37 | アイドル etc

 9月のある土曜日の午後、私は川崎でDancing Dollsを観ていた。彼女達の場所はアイドルというカテゴリーとは違うかもしれないが、彼女達は笑顔を振り撒き、ミニライブ後には握手会を開いて数十人のヲタとコミュニケーションを行なった。
 ステージは軽快なメロディに乗せてキレのいいステップを踏むメンバーの躍動が存分に発揮されたもので、その緊張感のあるステージングは通りすがりの買い物客の足を止めるだけの迫力は確かにあった。彼女達の平均年齢は16歳。双子のメンバーは既にネット動画界隈では人気者である。

【FULL】Dancing Dolls 『タッチ-A.S.A.P.- (Music Video)』


 魅せるダンスとは一体なんだろう?私も通行人も、或いは彼女達のステージを視るのは初めてではないであろう数十人のヲタも、ほとんどの人が彼女達のダンスに目を見張った。そのダンスは玄人ではない我々に息を飲ませるだけの見映えの良さを備えている事は、確かにしっかりとステージ上から発散されていた。プロとしてダンスを披露するのであれば、それはただ上手いだけではなく、観ている側を楽しませワクワクさせるものでなくてはならない。
 私はとても良いものを観たという充実感で満たされながら池袋に向かった。

 サンシャインシティの噴水広場のステージに女子流のメンバーは立っていた。彼女達のヲタは一緒に身を踊らせながら、ステージとのシンクロを満喫していた。それは紛れもないアイドルというジャンルが表現され、彼女達はそのステージに忠実であったのだ。

東京女子流 / Bad Flower -Short ver.-


 五人は少し大人っぽい表情と、少しはにかんだ幼さを両生させながら、ゆったりとしなやかに踊っている。多くの観客で埋め尽くされたフロアには女の子の姿も割と多い。それはそのまま東京女子流への期待と憧れへの眼差しとしてステージに突き刺さる視線の束であり、メンバーもその束を受け止める事は望むところなのだろう。既にメンバーの歩く行き先は武道館という道しるべが立っている。

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