Nonsection Radical

撮影と本の空間

今年の冬のあいだの疑問

2011年04月25日 | Weblog
今冬、駅などでずっと後ろ姿を見ていたんです。
女性のお尻を見ていたわけではございません。
腰回りです。

男女問わず、コートにベルトがついているのを着ている人が多いじゃないですか。
あのボギーが着ているような(トレチン、じゃ大変だ。トレンチ?)コートについているようなベルト。
ボギーはこうやって結んでいますが、結んで、あるいは締めている人っていないんですよね。
以前は、せいぜい左右に垂らしていたんですが、最近はベルトを前に回さずに、後で結んでいる人が多いんですわ。

どうもあれが気になる。
使わないのなら外してしまった方がイイではないか。
わざわざ後で結んで邪魔にならないようにするのがダサくはないのか。
イタズラされたりしないのか?
こっそり外されて、支柱かなにかに巻かれたりしないのか。
後を振り向くと、ベルトが牛を引いていたという事はないのか?
それとも何かの時に、ベルトを引っ張ってもらって、九死に一生を得る事があるのか。

そもそも実用的でないベルトを使いもしないのに、わざわざつけて販売しているのはなぜなのか?
使いもせずに、後に回して、まわしのように結んでいるベルトなのに、なぜついているコートを買うのか?
それが理解出来ない。

そのうちに、最初から後に結ばれて固定されているベルトつきコートが販売されるであろう。
いや、すでに販売されているかも。
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日本人は賢いのか?

2011年04月24日 | Weblog
かなりの高い率で高等教育を受けている日本人。
それでいて、何のために数学をするのかわからないとか、これは何の役に立つのか?という問いが長く発せられ、なんで人を殺したらいけないのか、という問いと共に、ハッキリした答えを言えない「教育者」がいるために、目的を持たないままテストのためだけに勉強する人があとをたたない。
では、なぜいろいろな教科を勉強するのか?
satoboが聞いた答えは、それぞれの思考の仕方を学ぶため。
数学は数学的思考の仕方、国語は国語的思考の仕方、社会は社会的思考の仕方。
それぞれ異なった思考の仕方があるらしい。
実感するのは、某経済学学者がいるのだけれど、経済学的思考の仕方が身についている人で、何にでも経済学的思考で理解しようとし、それを発表する。
何にでもそうするから、時には倫理観や正義と言った文学的比喩にも及ぶのだが、当然トンチンカンな話となる。
しかし、当人は経済学的思考しか出来ないので、トンチンカンなのがわからない。
英語に関して美術的思考で語るって、意味わかる?
ホントの正しい理論というのはすべての事が説明出来る(らしい)が、トンチンカンになるというのはそれがホントに正しい理論ではないからだろう。
つまり経済的理論は万能ではないという事だ。

まあそういう目的で多くの人が受けたはずの高等教育だが、最近見直された「ゆとり教育」と同様本来の目的が遂行されていないようなのだ。
というより、高等教育もゆとり教育も同じ目的であったが、そんな目的は結局目も向けられなかったという事だ。
その目的とは、自分で興味を持って考えるという事。

様々な手法を得て、自らの興味で新たな事を考えだすこと。
それを求める事を教育の目的としたのですね。
なんか新しい事を考えろよ!
ということ。
技術立国ニッポン(チャチャチャ)は、新興国(それもこれまで蔑視差別してきた国)に世界の工場の立場を奪われ、技術さえも将来危うくなってきたのは明白だと政府も認め、それらの国には真似出来ない新たな技術開発を出来る人材を育成するためには、仕方なくこれまでの教育制度を改めて、管理から発想への教育へと変えたわけだ。
その結果、遊ぶコドモが増えて、管理不行き届きとなって、管理教育と戻った。
つまりテストの点が悪いとダメなわけだ。
テストの点が悪いヤツに新たな発想など出来るわけがない。
スゴい発想だが、現実にはそう思われたわけだ。
そうして再び「完成した」教育制度で新たな発想をするスゴいコドモを作る事になったのだ。
安心なのはこの制度だと、これまでもそうだったのだから、たとえ失敗(人材育成)しても誰も責任を取る必要がないのだ。
これまで通りしてきた。
これほど強い免罪符は日本にはない。
これまで通りしてきて糾弾される事はないのだ。
結果よりも過程が大切なのだ。

というわけで、これまで通り、管理出来ない天才よりも従順な愚者を作る方が楽だということで教育方針を再び変えた日本国だが、その結果、将来あるコドモたちは、放射能の含まれた大地で遊ばせて「ただちに健康に被害はない」と思っている親や教育行政によって危険のリスクにさらされる事になっているのだ。
コメント (2)
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いろいろしたくなる

2011年04月23日 | Weblog
このところビデオカメラ遊びに熱が入っている。

生まれついての性格で持続してモノゴトを進める事が出来ない。
かといってすぐに飽きて終わりというわけでもない。
それを自己弁護として「断続的」と呼んでいる。
一生愛し続けるわけではなく、一生繰り返して愛すわけだ。

そういうわけで、13年もののビデオカメラをまた発掘して撮影しているのだけど、これまでと違うのはいろいろアクセサリーをつけて「実用的」にしている点だ。
これまでは不満があっても、そういうもの、としてそのままにしてきた。
それを今回は「改良」しようとしている。
内臓マイクだと風の音がザーザー入るのだけど、それを外付けマイクと風防で防ぐ事に。
内臓マイクにガムテープを貼ったのだけど、効果がなかったし。

ワイドコンバータレンズ(ワイコン)にフードを自作。
ワイコンは太陽の光が近くにあるだけでひどいフレアが出てコントラストが低下していたが、ワイコンにはフードはつかないだろうと諦めていたが、試しに紙切れをかざしてみると案外干渉しない事がわかった。
そこでメモ帳の紙を切り抜きフードの原型をつくって、現物合わせで形を整えていった。
すると1センチもひさしが出来て、立派なフードとなった。
固定と補強はパーマセルで。

先日撮影した街歩き映像を取り込もうとしたが、思った以上に画面がブレていた。
そこでブレを低減出来るスタビライザーなるものを研究。
主な効果は画面を水平に保つというものだが、それが逆に欠点になると考えていた。
というのも、カメラを構えて歩いていると上下にカメラを向けて、高いところや低いところを撮影していた(つもりだった)。
ところが実際の映像を見てみると、それほど上下に動かしてはいないのだ。
ならば少しでも効果があるのならと。
実際はまだ購入していない。

映像をマックに取り込んで見ていると、こんな事したら、あんな事したら多少はマシな映像になるかもと効果表現を触りたくなるけれど、それをするとマシなものになるどころか、ひどいものになる事がわかっているので、じっと我慢して何もしないことにする。
どうせヘタなら何もしないヘタの方がイイ。



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こんな時間だ

2011年04月23日 | Weblog
ついウトウトしてしまった。
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昼休みにダイエット散歩

2011年04月21日 | Weblog
最近またダイエットをしているのだけど、順調に進んでいる。
だいたい目標を1日50グラム減量に。
50グラムでだいたい500Kcal。
それで昼食を抜きに。
そして万歩計をつけて1日1万歩歩行。
ところが会社往復では5000歩ぐらいしか歩かない。
そこでお昼に散歩する事に。
ほとんど知らない街をクネクネとあてどなく。
するとあるある。
アーケード商店街、長屋などかつては活気あふれたであろうエリアが案外近くにあった。

何も持たずに歩き回るので、唯一の頼りは太陽だ。
だが最近の太陽は高く、南の位置がわかりにくい。
南に歩けば、北へ戻る。
そういうふうに歩いて元の場所に戻ってくる。
ところがジグザグひとりきり歩くのと、道路の作りがメチャクチャなので現在地がわからなくなるのと、行きたい方向に道路がなかったりしてとんでもない場所まで来たりする。
そうなると限られた時間のため、早足で、そしてギャロップで戻ろうとするのだが、記憶のある場所まで戻るのが必死になる。
ようやくたどり着くと1時寸前となっている。
これで約3000歩。

ビデオカメラを持って歩こうかと思う。
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