Nonsection Radical

撮影と本の空間

胸の振り子さんの写真のこと

2018年02月17日 | Weblog
胸の振り子さんこと根本豊治さんが2月13日に交通事故で亡くなった。
胸の振り子さんの写真は、satoboにとっては不思議な”産物”であって、いつも感心しながら見ていた。
satoboも少しは写真を撮る状況というものが見えてきて(それでも大きな勘違いは多々あるけど)、この写真はこういう状況でこういう感覚でこういう感じ方でこういう撮り方をしたのだなと想像できるようになった(と自分では思っている)のだけど、振り子さんの写真はどうやらそういう感じ方で撮影していないということが本人に聞いたところで判明して、じゃあどうしてこんな写真が撮れるのだろうと不思議に思い続けているのだった。
それでとりあえず納得した答えは(本人は納得しないだろうけど)、”感性”で撮影していなくて”知性”で撮影しているのではないかと。
知性という言い方は誤解を招くのだけれど(いつも言葉遣いで誤解を招くけど)、スナップでさえも頭の中で画面を組み立ててシャッターを押す感じなのではないかと。
パッと見てパッと感じてシャッターを押すというよりも、そこに頭脳での演算が入って計算した写真を組み立てる感じ。
だから8X10で撮影したようなスナップが撮れるのにいつも不思議な気持ちがしたんだよね。すごいなぁって。
そういう”知性”優先写真って他に思い浮かばない。
satoboのこういった勝手な詮索を振り子さんは嫌っていたようなので(何しろ知性対痴性だからね)あまり迷惑にならないように遠くにいたんだけど、いつもつぶやきサイトで活動は見ていたんだよね。目が話せない人でしたから。
これからは寂しくなるよねぇ。



壺屋大通り 1 やちむん通り
沖縄県那覇市壺屋1丁目
撮影 2017年11月24日 金曜日 16時20分
コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 出るときには出る | トップ | 残されるものの失意 »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
何を見ていたのか (田村)
2018-03-19 19:39:52
もしかすると、記憶(現世と言うより遥か前からの)を探していたのかもしれない。
原風景と言えるかわからないが。

それは、記録で有るようで記憶。だから、確認して回った。
下調べもしていると思う。
彼の事が知りたい、何を話されましたか。

何故、医師を目指したんだろうか。
返信する

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事