Nonsection Radical

撮影と本の空間

記録としての人物写真

2018年08月14日 | Weblog
オーストラリアのシドニーにある「Justice & Police Museum」(裁判と警察の博物館?)に所蔵されているマグショット(逮捕された時の記録写真)を有中部で見つけた。





こういう写真が好きなんですよ。
人物を写真に撮る場合、なにがしかの思入れを込めたり、作為を込めて作ったりしたりするじゃないですか。それがお作法のように。
それによってその人”らしさ”を表現できたりするとお考えの人もいるでしょうが、そうなのかなぁといつも思ってしまいます。
依頼写真だったりしたら、依頼者が喜んでくれるように撮影するのがスジなんでしょうが、だからと言ってその写真がその人らしさを表しているのかというと、そうじゃないんじゃない?って思ってしまうんですよね。
まあそもそも”らしさ”ってなんだよという疑問もあるにはあるんですけど。
それでも”モデル”と撮影者とは面と向かえばそれなりのコミュニケーションがはかられるわけで、”モデル”の表情は撮影者の”鏡”ではないかと思ったりもします。
だから良い表情が撮れたとしたら、それは撮影者に向けられた表情であり、そういう表情を向けられて嬉しく感じることもありましょう。
でも、自分に向けられた表情を撮りたいわけではない場合(そんな気持ちを抱くのは自分以外にはいないかもしれないが)、コミュニケーションが逆に障害になって、その人”らしさ”が撮れないんじゃないのなんて思ってしまうんですよね。
たとえばリチャード・アヴェドンのポートレートは、かなり作為的に作為を消しているように振舞っているんだけど、まだまだ不十分に思うんだよね。
それに比較して上記のマグショットというのは、かなりいいセンを行っていると思うんだよね。
かなりその人なりの特徴が出ているような。
なんて思って名前から犯歴を見ると印象が見事に裏切られたりするので人の目など(自分の目ですが)信じられませんが(笑)。

1920年代に撮影された上記のマグショットはガラス乾板に撮影されています。
やはりポートレートは大判、4x5や8x10で撮影するのがよろしいようです(断言)。
コメント
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