Nonsection Radical

撮影と本の空間

保守的なのかイイカゲンなのかわからん

2014年03月18日 | Weblog
今、明治期の廃仏毀釈についての本を読んでいるんだけど、なんだかなぁと思う事がいろいろ浮かんでくるんだよねぇ。
さかのぼる事ずっと昔、日本に仏教が入ってきた時に日本人はこの新しい考え方に、どのように折り合いをつけようかと悩んだ末に、釈迦は古来(?)からの神の化身ということにして受けいる事にしたのが神仏習合なんだけど、それを再びわけて「神」だけを重要視して天皇制の背景にしようとしたのが廃仏毀釈だと乱暴に言ってみる。
その動きをウンヌンしたいのではなくて、そうやって1000年以上続いた”考え方”を制度として転換したら、あっさり”臣民”はそれを受け入れて、さも1000年以上前から日本は「神国」で天皇は現人神だと思っちゃうその精神性をウンウンしたいんだよ。
元々「帝(ミカド)」の存在など明治以前には都(京都の事ね)周辺ぐらいしか知れ渡っていないのだし、薩長や東国の田舎者(都人からみれば)なんかほとんど存在も知らなかったじゃないのさ。
もともと日本での「神」というのは、外国でいうような「神」ではなくて、どちらかというと「霊(りょう)」で、恨みをもって死んだ人などが災いをもたらすという考えから「鎮魂」して、更には慰撫することで災いから守ってもらうという考えがあると思うんだよ。
そういう考えだから明治期にも新たに神社がたくさん作られていくんだけど、その動きをウンヌンしたいのではなくて、そういう”考え方”があったはずなのが、いつの間にか西洋の神のような考え方で日本の神をとらえるようになったんだよ。
廃仏毀釈によって、明治以前と以降では神社というものの成り立ちがすっかり変わってしまったんだけど、現在はさも1000年以上前から現在の神社であったかのように日本人は思っているわけね。
神前結婚式なんてのも明治以降からの”人工的”なものなんだけど、たとえばお祝い金の包み方なんていうのがマナーの本で「これが正しい」なんて書いてあって、それを”守る”ことが正しいなんて思っているけど、そういう「正しいマナー」というのは年々新しく「正しいマナー」が生み出されているわけですよ。
偶数は割り切れるから縁起が悪いなんているけれど、じゃあ江戸時代に祝い金に二両とか二朱は縁起が悪いと言われていた証拠を見せて欲しいものだね。
そもそも夫と妻の二人というのが偶数で割り切れるから縁起が悪いはずだし、だからといって三人で結婚しろなんて言わないじゃない。
四は死につながるというのなら「市」も「氏」も「詩」も「師」も縁起が悪いだろうに。
21世紀になっても(これは西暦ね)、じゃあ紀元2674年になっても、「昔からのしきたり」なんて、その「昔」がいつぐらいの「昔」なんかも考えもせずに「伝統」とかって言葉を持ち出しているけれど、その一方であっさり古来からの事を変えてしまって、それを忘れて、新たにグチャグチャと新しい「伝統」を作り出しているのは、保守的なのかイイカゲンなのかわからんよ。
源氏物語で”妻”のもとへ通ってくる事に違和感を覚えず、一方で婚姻届を出す事を「入籍」などと意味不明な言葉で言い表したり、家族が一緒に暮らす事が「本来の姿」だとか言ったり、時それぞれに都合のイイ「伝統」を持ち出してくるのが日本人の「伝統」なんだろうかね。




長瀬駅前商店街
大阪府東大阪市菱屋西1丁目
撮影 2014年1月25日 土曜日 15時05分
コメント (4)
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